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産業社会とその未来



序文 産業革命とその結果は人類にとって災いをもたらした。これは先進国に住む人々の平均寿命を大幅に延ばした。しかし同時に社会を不安定にし、生活に不満を行きわたらせ、屈辱に人をさらして、そのうえ精神的な苦しみを(発展途上国では肉体的苦しみも)促し、自然の世界に深刻なダメージを負わせた。引き続き発展しているテクノロジーは、状況を悪化させている、これは人々をより大きな侮辱にさらし、自然に深刻なダメージを負わせることで、さらに大きな社会的破壊と精神的苦しみを招くであろう。これは「先進」国でも増加している肉体的苦痛をも誘発するかもしれない。

2、産業テクノロジー・システムは生き残るかもしれないし、崩壊するかもしれない、もし生き残ったとすれば、それは肉体と精神の苦痛を最小限に抑えることが可能な社会を築くかもしれない。しかしそれには長くて苦痛なテスト期間をへて、人間その他の生命を社会の歯車のひとつにするという犠牲を伴う。もしシステムが生き残るならば、結果は必然的である。どのように作り替え、システムを修正しようとも、威厳と自治を人々から奪うことは避けられない。

3、もしシステムが崩壊するならば、結果はやはり悲惨なものになるだろう。しかしシステムが肥大化すればするほど、その崩壊後の結果は悲惨になる。ゆえに、破壊するのならできるだけ早い方がよい。

4、産業テクノロジー・システムに対して革命を提唱する。この革命で、暴力を使うことになるかどうかはわからない。それは突然起きるかもしれないし、何世代かかかってゆっくりと起こるかもしれない。それはわれわれには予測のできないことだ。しかし概要をいうならば、産業テクノロジー・システムをひどく嫌悪する人々は、この社会形態に対して革命を起こす心の準備をするべきである。これは政治的な革命ではない。その目的は政府ではなく、現在の社会経済と基礎テクノロジーを覆すことである。

5、この論文でわれわれが取り上げるのは、産業テクノロジー・システムの発展に伴う弊害の一部分だけである。その他のものは、簡単に取り上げるかまったく無視をするかどちらかだ。それはわれわれがこれらの発展を重要視していないからではない。現実的な問題として、われわれはこれまで不当に取り上げられてこなかった事柄や、何か新しい意見を発表したい事柄に限定しなければならないのだ。例えば、環境問題や自然保護に関する運動はこれまで非常に発達してきているので、このなかではこれらの題材に少ししか触れていない。しかしこれは、非常に重要であると考えている。

現代の左翼主義の心理学

6、ほとんど誰もが私たちの住む社会が大きな問題を抱えていることに同意するでしょう。われわれの世界でもっとも広く行きわたった狂気のひとつが、左翼主義である。そのため現代社会の問題を議論するには、まず左翼主義の心理を議論することから始めよう。

7、ところでいったい左翼主義とは何か。20世紀前半において、それは社会主義とほとんど同一視されてきた。現在ではそれぞれの動きがバラバラになってきており、何を指して左翼と呼ぶことが相応しいのか確信がない。この記事のなかでわれわれが左翼という場合、主に社会主義者、集団主義者、政治的に正しい、タイプやフェミニスト、ゲイ(LGBT)と身体障害者の人権保護活動家、動物愛護活動家のような人々を指している。しかし、これらの運動のひとつに関係している人物が、すべて左翼であるというわけではない。われわれが左翼主義を取り上げていることは、運動そのものやイデオロギーの心理についてではなく、このような傾向を持つ関連タイプについてである。われわれがここで『左翼主義』と呼ぶものによって左翼的な心理がはっきりと見えてくる(第227~230項3照)。

8、それでもわれわれの左翼主義に対する概念は、われわれが望むほどはっきりはしていないだろうが、これに対処する方法が見つからない。ここで明確にしようとしているのは、現代の左翼主義に影響を受けている2種類の大まかな心理的傾向についてである。左翼心理のすべてについて話そうなどという気持ちはない。またわれわれの議論は、現代の左翼主義にだけあてはまる。われわれの議論が、19世紀と20世紀初頭の左翼についてもあてはまるかどうかという問題はここでは触れないでおく。

9、現代の左翼主義の基礎をなす2つの心理学の傾向を、われわれは、”劣等感”と過剰社会化、と呼んでいる。劣等感が現代の左翼主義の全体的な傾向であるのに比べ、過剰社会化は現代の左翼主義のある特定の特徴である。しかしながらこの要素は非常に影響力がある。

劣等感

10、『劣等感』というのは、厳正な意味での劣等感だけではなく、それと似たような精神構造、自尊心の欠如、無力感、うつ病の傾向、敗北感、罪悪感や自己嫌悪なども含まれる。われわれは、現代の左翼主義がこれらのこのような感情を(多少抑制されてはいるが)持つ傾向があると考える。そしてこれらの感情が、現代の左翼主義の方向性を左右しているのである。

11、誰かがある人物、またはその人物が属する特定のグループを差別する場合、その人物は劣等、あるいは自尊心が低いとみなされる。このような傾向は、本人がそのグループに属しているいないにかかわらず、マイノリティ(少数派)の権利を主張する活動家に見られがちだ。彼らは少数派を指して使われる言葉に、非常に敏感である。「ニグロ」「オリエンタル」「身体障害者」「チック(ひよこ)」などの言葉は、それぞれアフリカ人、アジア人、体の不自由な人、そして女性を指していたが、もともと軽蔑の意味は含まれていなかった。「ブロード」「チック」は、男性でいえば「ガイ」「デュードゥ」「フェロウ」)などと同じ種類のものである。これらの言葉が軽蔑的な意味合いを持つというのは、活動家たち自らが言い出したことである。ある種の動物愛護活動家は、「ペット」という言葉を否定し、「アニマル・コンパニオン」と呼ぶことを主張する。左翼的な人類学者は、未開文化の人々を説明するのに否定的に解釈されかねない表現を使うまいと、長々とまわりくどい言い方をする。「未開」を「読み書きの発達していない」と言い換えようと試みている。どのような未開文化に対しても、われわれのものより劣っていると解釈されかねない表現については、ほとんど妄想的である(われわれはここで未開文化がわれわれよりも劣っていると主張するつもりはない。たんに左翼的な人類学者の過敏さを指摘しているだけである)。

12、政治的に間違った、用語に最も敏感な人々は、スラム街出身の黒人でも、アジアからの移民でも、迫害された女性でも、身体障害者でもない。社会的地位のある背景から出てきた少数派の市民権の尊重を主張する活動家である。「政治的な正しさ」は安定した収入の大学教授や、白人の異性愛好者の中産階級出身である大多数派に人気があるのだ。

13、左翼の人間は、弱いイメージのある者(女性)、敗北者(アメリカ・インディアン)、避けてこられた者(LGBT)などの問題を抱えた人々に強烈な同調心を寄せる。左翼の人間自身が、これらのグループが劣っていると考えていることはけっして認めようとしない。しかし彼らがそのような感情を持っているからこそ、これらのグループの問題に同調を示すのである(われわれは女性、インディアンその他が劣っていると主張しているのではない。ここでは左翼の心理を説明しているにすぎない)。

14、フェミニストは、女性が男性と同じくらい強くて能力があるということを証明するのに必死である。明らかに、彼らは女性が男性と同じくらい強くはなく、能力もないという恐れを持っているからこそ、こうして奔走しているのである。

15、左翼の人間は、強くて豊かで成功しているというイメージを嫌う傾向がある。彼らはアメリカが嫌いで、西欧文明が嫌いで、白人男性が嫌いで、合理主義が嫌いだ。彼らが主張する西欧文明を嫌う理由というのは、明らかに本音とは異なっている。建前としては、好戦的で、帝国主義で、性差別主義であり、そして自民族中心的であるという。これとまったく同じ傾向が社会主義国、あるいは原始社会にも存在することを認めながらも、それらの社会に関してはなんらかの言い訳を考える。あるいは、これらの社会での落ち度の存在をしぶしぶと認める反面、西欧社会の落ち度はしばしば強調して、熱を持って指摘する。しかしそれが彼らがアメリカと西欧を嫌う本当の理由でないことは明らかだ。その理由は、アメリカや西欧文明が強くて、成功しているためである。

16、リベラル、左翼にとって、「自信」「自己依存」「イニシアティブ」「企業心」「楽天主義」のような単語は、ほとんど関係がない。左翼は、全体主義で、非個人主義である。社会に個人の問題を解決させ、面倒を見てほしいと願っているのだ。彼らには自分の問題を解決し、ニーズを満たすだけの能力に対する自信がないのである。彼らが競争社会の概念を否定するのは、心の奥底では、彼らは敗北者と自覚しているためなのだ。

17、現代のインテリ左翼にアピールする形態というのは、惨めさ、敗北、絶望に焦点を当てる傾向があり。それ以外のものには彼らは理性をかなぐり捨てて、合理主義は何も完成させることが不可能であるかのように主張する。

18、現代の左翼の哲学者は、理性や科学や現実を無視し、すべてのものは文化的に相対的であると主張する。確かに科学的知識の基礎や、客観性の現実味についての説明がいかになされているのかというのは、重要な問題である。しかし現代の左翼の哲学者が、知識の基礎を分析する冷静な論理学者でないことだけは明らかである。彼らの真実と現実への攻撃は、多分に感情的である。自らは精神的な必要性で、この攻撃を行っているのだ。ひとつには、これは彼らの成功への敵意のはけ口となっている。さらには、左翼派は自分たちのある意見を真実(成功、優秀)と考え、他方を虚偽(失敗、劣等)と考えているため、科学と合理性を憎んでいる。左翼の劣等感はあまりにも強いため、成功、秀逸、そして落伍、劣等という区分けをすることすら容認できないのだ。また、精神疾患の概念、そしてIQテストの使用も否定する。左翼は、遺伝子が能力や行動を左右するという意見に敵対するのは、これが人間の甲乙を左右しがちであるからだ。左翼は、このような個人の能力の有無の責任も、社会に負わせることを好む傾向がある。個人の才能が「劣っている」のなら、それは本人ではなく、育った社会環境の責任なのだ。

19、左翼は、劣等感を自慢にしていて、それを原動力に自分を成長させて社会に挑戦を挑むような種類の人々ではない。この種の人は、自分に対する自信をまったく失ったというわけではない。彼は自分の力と価値に対するひけ目があるが、まだ強くなる自分の可能性を想像することができる。そして強くなるための彼の努力が、本人の不愉快なふるまいを引き起こす。[1]しかし左翼の人間の場合は、これよりもさらに重症である。劣等感があまりに深く浸透しているために、自身を強くて能力がある一個人として認識できない。そのため左翼の集団主義が起こる。彼は自身を大きな組織、または同調する運動のメンバーとしてのみ強く感じることができるのだ。

20、左翼の自虐的な戦術傾向に注目するべきだ。彼らはわざと車の前に横たわってみせ、警察か人種差別主義者などに虐待を引き起こさせる。これらの戦術はしばしば効果的かもしれないが、左翼の人々は物事に決着をつけるためにその方法を用いるのではなく、彼らは好んで行っているのだ。自己嫌悪は左翼の特徴である。

21、彼らの活動の動機は社会的同情、あるいは道徳原則と左翼は主張するかもしれない。そしてこの道徳原則というものが左翼のなかでは過剰社会化されるタイプに一役かっている。しかし、同情と道徳原則が左翼活動の主要な動機ではありえない。敵意と権力への熱意は、左翼の活動に重要な要素である。また左翼の活動は、彼らが助けようと主張する人々のためになるように合理的に計画がされていない。例えば、もしアファーマティブ・アクションが黒人にとって利益があると信じるならば、攻撃的で独断的な条件でアファーマティブ・アクションを要求することに意味があるだろうか?アファーマティブ・アクションが逆差別だと感じている白人たちも譲歩できるような戦術を用いた方がよほど効果的に決まっている。しかしそれでは彼らの感情的なニーズを満足させないので、左翼活動家はそのようなアプローチをとらない。黒人への援助が、彼らの本当のゴールというわけではない。その代わりに人種問題は、自分たちの権力志向に対する欲求不満と敵意を表すための言い訳の役目を果たしている。彼らの過激な態度は一般白人を刺激するため、結果的には人種間の対立を深めている。

22、もしわれわれの社会に、社会的な問題がまったくなければ、左翼の人々は自分たちが騒ぎ立てる言い訳をこしらえるために、それを捏造するだろう。

23、ここで述べたことは、左翼を称するすべての人々にはあてはまらないことを強調しておく。これはたんに、左翼主義の一般的な傾向の大まかな特徴である。

過剰社会化

24、心理学者は、子供が社会の要求する通りに考えたり行動したりする訓練を指して、社会化、という言葉を使う。社会道徳を信じて、それに従う人々は社交的だとされ、社会的に受け入れられる。左翼派は社会の異端児として扱われている現在、彼らを「過剰社会化」しているというのは一見不適当であるかもしれない。しかしこれは説明することができる。左翼の人々のほとんどは、それほど異端児というわけではないのだ。

25、われわれの社会規制は、あまりにも人々を束縛しているために、誰も完璧に道徳的に考え、感じ、行動をすることができない。例えば道徳上では誰も憎しみを持つべきではないとされているのに、本人が認めようと認めまいと、誰もがそのときどきで誰かを憎んでいる。ある種の人々はあまりにも社会化されているために、自分の頭で道徳的に考え、感じ、行動するのを重荷に感じるほどである。彼らは罪悪感を感じることを避けるために、何か行動を起こすたびにまったく道徳的ではない自分の動機を無視して、何か道徳的な言い訳を常に考え出さなくてはならない。このような人々を指して、われわれは「過剰社会化」という用語を使う。[2]

26、過度の社会化は、自尊心の低下、無力感、敗北感、罪悪感などの感情を招く。われわれが子供を社会化させるうえで重要視するのは、社会の通念に反する言動を恥ずかしいものであると感じさせることである。もしもこれが行きすぎ、またはその子供が繊細であれば、彼は自分自身が恥ずかしい存在であると感じるだろう。過剰社会化された人間の考え方や行動は、そうでない人々よりも世間の目を意識するという意味で制限されている。人々のほとんどは、節操のない行いに時間を費やしている。彼らは嘘をつき、小さな窃盗をはたらき、交通違反をし、仕事をさぼり、誰かを憎み、不当な手段を使って他人を出し抜こうと試みる。過剰社会化された人々はこれらのことができず、もしも行えば恥と自己嫌悪の感情を持つ。過剰社会化された人々は、罪悪感なしにして不道徳な考えや感情を経験することすらできない。彼らは「不潔な」考えを試みることができないのだ。そして過剰社会化は道徳上の問題だけではない。われわれは道徳上の基準からはみ出ないようなふるまいをするために、社会化される。したがって過剰社会化された人々は、心理的に鎖でつながれ、社会が敷いたレールの人生を歩むことに一生を費やす。これは過剰社会化された人々に、ときに深刻な苦難と、無力感を与えることになる。過剰社会化は、人間が相手に与える影響のなかで、もっとも残酷なものであることをわれわれは主張する。

27、われわれは現代の左翼のもっとも重要な要素がこの過剰社会化であり、そしてこれは現代左翼の今後の方向性を示しているものであることを主張する。過剰社会化された左翼は、インテリや上流中流階級のメンバーであることが多い。大学知識人[3]のほとんどが、われわれの社会でもっとも社会化されており、左翼的である事実に注意すべきである。

28、過剰社会化されたタイプの左翼は、心理的な鎖を取り外して反乱を起こすことによって自己主張を試みる。しかし彼は社会のもっとも基本的な価値観に対抗できるほど、強くはない。一般的に言えば、今日の左翼の目的は社会道徳との対立ではない。それどころか、左翼は一般道徳の原則を自己流に取り入れて、社会の主流がそれに反していると非難をする。例えば人種の平等、性の平等、貧民問題、戦争を否定した平和、非暴力主義、表現の自由、動物愛護など。基本的に、個人の義務は社会に奉仕することであり、社会の義務は個人の面倒を見ることであるのだ。これらは長年われわれの社会、少なくとも中産上流階級の[4]なかで定着していた価値観である。これらの価値観はこれまで明確に、あるいは暗示的にあらゆる主流の通信メディアや教育のなかに取り込まれてきた。左翼主義者、特に過剰社会化された彼らはこれらの価値観に対して反発をするのではなく、社会が充分にこの価値観を実行していない(そこにはある程度の真実が含まれるが)と攻撃することに、自分たちの正当性を見出している。

29、過剰社会化された左翼の人々が、反抗しているふりをしていながらも、実はわれわれの社会の慣習的な姿勢に取り入っているという具体例がある。大多数の左翼は、アファーマティブ・アクションを推進し、黒人がよりよい職を得て、学校の教育システムを改善するための資金を要求している。そして黒人のライフスタイルを低級とみなして、社会の汚点扱いをしている。彼らは黒人を社会のなかに取り込んで、白人の中産階級のように弁護士や科学者、企業の重役などにしようと試みている。それでいて彼らは黒人に白人の真似をさせようとはけっして思わないと主張し、アフリカン・アメリカンの文化を維持させたいという。ところで、このアフリカン・アメリカンの文化の維持とはいったいどのようにして行われるのか?黒人風の食事をして、黒人風の音楽を聞き、黒人風の衣装を身に着けて黒人の教会かモスクに行くという以上の何かがあるのか?言い換えればこれらはたんに表面的なことだけである。基本的には、過剰社会化された左翼のほとんどが、黒人を白人の中産階級のように仕立てたいと思っている。専門的なことを学び、重役か科学者になって出世のはしごを昇ることに人生を費やし、黒人は白人に劣ってはいないということを証明してみせろと言っているのだ。黒人の父親に「責任感」を持たせ、黒人のギャング団には非暴力的になってほしい。しかしこれらは、まさに産業システムの価値観である。このシステムは、人々が教育を受けて尊敬に値する職を得て、出世街道を歩み、親として「責任」を持ち、非暴力的である限り、どんな音楽を聞いてどんな服を身に着け、どんな宗教を信じるかなどという事柄はどうでもよいと感じているのだ。それでいて、実際にはほとんどの過剰社会化された左翼は、黒人をシステムの価値観のなかに順応させたいと願っている事実を否定するだろう。

30、たとえ過剰社会化された左翼でも、社会の基本的価値観に「絶対」に反逆しないとは言いきれない。彼らは明らかに、ときどき反乱を起こす。ある種の過剰社会化された左翼派は、現代社会の基本的な規制に対して暴力で訴えかけた。彼らの説明によると、この暴力は「解放運動」なのである。別の言い方をすれば、この暴力行為によってこれまで埋め込まれた心理的抑制を断ち切るのだ。彼らは過剰社会化していたために、そうでない人よりもこの心理的抑制が強く働き、よってそれを断ち切る欲求が生まれてきたのだ。しかし大概彼らの反乱の正当化の理論づけは、社会の主流価値観を用いて行われる。彼らが暴力に訴えるのは、人種差別に対抗をするためというような主張を行うのだ。

31、現在形を成しつつある左翼的心理の粗筋に対して、多くの問題点を指摘することができる。実際問題として状況は複雑であり、必要なデータをあげようとすれば、完全な記述を行えば本数冊分にもなってしまう。われわれは、ここでは大まかに現代左翼主義の心理のなかでもっとも重要な2つの問題だけをあげた。

32、左翼の問題は、われわれ社会全体の問題を示している。自尊心の欠如、うつ状態の傾向、そして敗北感は左翼だけとは限らない。左翼は目立ってはいるものの、これらの傾向はわれわれの社会全体に広まっている。そして今日の社会は、史上もっとも広範囲にわたってわれわれを社会化しようと試みている。われわれは食事の仕方、運動の仕方、性交の仕方、育児の仕方まで専門家によって指示を受けているのだ。

パワープロセス

33、人類は、たぶん生物学的にわれわれが”パワープロセス”と呼ぶものを必要としている。これはよくいわれる権力志向と密接に関連があるが、まったく同じというわけではない。パワープロセスには、4つの要素がある。そのうちの明快な3つは、目的、努力、そして目的の達成である(人類には目指す目標が必要で、その目標にはある程度の成功を伴うことが必要だ)。4つ目の要素は説明することが難しく、誰もが必要とはしていないかもしれない。われわれはそれを自立性と呼び、のちに詳しく説明をする(第42~44項参照)。

34、仮に望むことがすべてかなう人物がいるとしよう。この人物にはパワーがある。しかしそのうち彼は心理的問題を発症する。彼は始めは多くの楽しみを持つであろうが、やがて倦怠感を覚え、無気力になり。結局彼はうつ状態となるかもしれない。あり余るほどの暇がある貴族が退廃的になる傾向があるということを歴史は証明している。これは、権力を維持するために戦い続けている貴族にはあてはまらない。しかし、地位の安定した貴族はたとえ権力を持っていても退屈をして倦怠感を覚える。これは、権力だけでは充分ではないことの証明だ。人間は、力を発揮できる目的を持たなくてはならない。

35、誰にでも目的はある。最低でも生活を支えるための食料と水、そして気候の変化から肉体を守る住居と衣服の維持がそうだ。しかし、貴族はこれらの物のために努力をする必要がない。そのために彼は退屈をして意気喪失していくのだ。

36、重要な目的が肉体の維持そのものであるなら、不達成とは死を意味し、命に関わらないものであるのなら、結果は欲求不満となる。人生で目的の達成に失敗し続けた人物は、敗北感にまみれ、自尊心が欠如するか、うつになる結果となる。

37、そこで精神的健康のために、人類には目指す目的が必要で、その目標にはある程度の成功が伴わなくてはならない。

代理活動

38しかし、暇な貴族は誰しも退屈したり、やる気を失ったようになるというわけではない。例えば昭和天皇ヒロヒトは、退廃的な快楽主義に沈む代わりに海洋生物学に専念し、その分野では卓越した存在となった。人々が肉体維持のために努力をする必要がない場合、彼らはしばしば人工的に目的を設定する。そして通常なら生存競争のために用いるのと同じエネルギーと情熱をもって、これらの目的に向かう。したがってローマ帝国の貴族には、彼らの文学的な目的があった。数世紀前のヨーロッパの貴族は、肉が必要ではなかったにもかかわらず、狩りに多大な時間を費やした。また富を誇示する競争に参加した貴族もいたし、少数は天皇ヒロヒトのように科学に目を向けた。

39、このように人々が目的意識のために、あるいは生き甲斐のために人工的に設定する目標を、われわれは「代理活動」と呼ぶ。この代理活動を見分けるための大まかな方法がある。Xという目的に多大な時間とエネルギーを捧げる人物がいるとする。もしも彼が生存競争のために時間とエネルギーのほとんどを捧げなければならなかったとすれば、そしてもしその努力が彼に生き甲斐を感じさせたとしたら、彼が目標Xを達成しなかったことに対して後悔するか?もしも答えがノーならば、彼の目的Xは代理活動である。昭和天皇がもし生計を立てるために生き甲斐を感じる仕事に従事していたとすれば、彼はきっと海洋生物の生態や、生活形態を知らなくても後悔することはなかったであろう。したがって、彼の研究は明らかに代理活動であったのだ。その一方では、例えば愛とセックスの追求は、代理活動とはいえない。というのは、大多数の人々はたとえ人生に満足していても、異性とよい関係が持てなければ人生が充実しているとは感じないからである(しかしひとりの人間が必要以上のセックスを追求するのは、代理活動であるといえる)。

40、現代の産業社会では、生存のために必要な努力は最小限ですむ。些細で専門的な技術を習得し、そして時間通り職場に行って、最低限の任務さえすませば、地位を保持するのには充分である。もっとも大切なのは、適当量の知性と、そして単純な従順さである。これを有する人々には、社会はゆりかごから墓場までの面倒を見る(なかにはこれらの生存すら惰性ではやっていけない下層階級の人々が存在することも認める。しかしここではあくまで社会の主流となっている階級について述べているのだ)。したがって、現代社会には代理活動が溢れていることは、驚くにあたらない。それらは科学的活動、スポーツの業績、人道的活動、芸術と文学の制作活動、企業の出世競争、肉体的な需要を越えた富と物質の収集そして本人には重要でない事内を推進する社会運動などがあてはまる。非白人マイノリティーのための市民権活動に従事する白人などがよい例だ。これらのすべてが、たんなる目標設定のためとは限らないのですべてが代理活動にはあてはまらないかもしれない。科学の活動は、名声が目的かもしれないし、芸術活動は感情表現の必要に迫られてのことかもしれない。また過激な社会運動は怒りが動機なのかもしれない。しかしほとんどの人々にとって、これらの大部分は、代理活動である。例えば科学者の大多数は、研究で得る「満足感」の方が、金銭と名声よりも重要であることに同意するだろう。

41、もしも全員でないとしても、ほとんどの人々は代理活動は本当の目標(たとえ人々のパワープロセスの必要性がすでに果たされたとしても、達成したいと思うゴール)ほど満足できないと言うであろう。これを示す徴候のひとつは、この代理活動に関わる人々のほとんどは、現状にけっして満足しないし、休息もとらないという事実である。富を追う者は、再現なく追い求める。科学者はひとつの問題が解決されれば、すぐさま次にとりかかる。長距ランナーは、絶えずより速く走れるように努力をする。これらの代理活動家たちは、これらの活動が生存のための世俗的なビジネスよりも多くの満足感を伴うことを表明するが、それはわれわれの現代社会が生存のための努力を最低限に減らしたためである。より重要なのは、われわれの社会では生存のための努力には自治的な満足感が伴わず、社会の歯車の一部として行われるという事実である。その反面、人々は代理活動では多量の自治的な満足感を得ることができる。

自治

42、パワープロセスの一部としての自治は、誰にでも必要なことではないかもしれない。しかしほとんどの人々は、多かれ少なかれ目的に向かって努力をするなかである程度の自治を求める。彼らの努力は自分の意志において行われ、自分の管理とコントロール下で行われなければならない。もっとも、これが個人ベースでなくてもよいと考える人々も多い。彼らにとっては、小規模のグループの一員として働くことで、充分である。したがってもし6人程度の人々の間で目標を話し合って、共同でその目標が達成できたのなら、彼らのパワープロセスへの要求はかなえられるのだ。しかしもしも彼らが厳しい管理下で指令を受け、自分の決断も意志も入れる余地が与えられなければ、彼らのパワープロセスへの要求はかなわない。もしも共同で決定を行うグループが巨大で、個人の役割が些細な場合は、同じ状況に陥る。[5]

43、個人によっては、自治の必要性がほとんどない場合もある。それは彼らの権力への志向が弱いためか、あるいは彼らの属している組織の権力で満足をしているためである。さらには、頭を使わずに体力のみで権力の欲求を満足させる種類の生物もいる(例えば自分の戦闘能力で相手に従順を促すことのできる軍人など)。

44、しかしほとんどの人々にとっては、自治と目標達成を伴ったパワープロセスによって、自尊心、自信、そして権力意識などが形成される。このパワープロセスが適切に行われない場合(その個人にどのような形でパワープロセスが中断されたかにもよるが)、倦怠、意欲喪失、自尊心の欠如、劣等感、敗北感、憂うつ感、不安、罪悪感、欲求不満、敵意、配偶者または児童虐待、快楽追求主義、変態性衝動、睡眠障害、摂食障害などが触発される。[6]

社会問題の原因

45、前述の徴候はいずれも、どんな社会でも起こりうる。しかし現代の産業社会ではそれは大規模に起きている。今日の社会が狂っていると主張するのは、われわれが初めてではない。これは人間社会の正常な状態とはいえない。未開人は、われわれよりもストレスが少なく、現代人よりも生活に満足していたという説には、根拠がある。未開社会は、それほどいいことずくめではなかったことは事実だ。オーストラリアのアボリジニの間では女性の虐待が問題視され、あるアメリカン・インディアンの部族の間では、性転換は珍しくなかった。しかし一般的にいえば、われわれがここであげた社会的問題は、未開社会では遥かに少ないと言う事だ。

46、われわれは現代の社会的または心理的問題が、人類が歴史の初期に進化し発達した状況と、大幅に異なる環境で暮らしを強いられているという事実に着眼した。現代社会が人々に強要する生活環境のなかでは、すでに述べたように適切なパワープロセスを体験することが難しい。しかし問題はそれだけではない。パワープロセスの中断が社会問題の原因であるという前に、他の原因について議論してみよう。

47、現代の産業社会の異常な状態とは、人口過密、自然からの乖離、社会変化の加速さ、そして家族や村、部族など自然に形成された小規模コミュニティーの崩壊などである。

48、人口過密がストレスと攻撃性を高める事はよく知られている。今日の過密社会と自然からの人間の孤立は、テクノロジーの発展の結果である。工業化される以前の社会は、すべて農村風であった。産業革命は、都市の規模と人口密度を増やし、農業テクノロジーの発展は、かつて存在しなかった数の人口を地球が養うことを可能にした。またテクノロジーは破壊的な力を人類に持たせることにより、この過密をさらに悪化させた。例えば電気芝刈り機、ラジオ、オートバイなどの雑音製造機ともいうべき機械類。これらのものの使用が野放しの状態では、平和と静寂を求める人々は雑音によって不満を生じる。また、もしも使用が管理されれば、これらの機械類を使用する人々は規制によって欲求不満を感じる。しかしもしもこれらの機械が発明されていなければ、誰もこれらの不満を持つことはなかったのだ。

49、それゆえに物事がゆっくりと移り変わる原始的な社会は、骨組みが安定していて平和である。現代社会では、人間社会が自然を支配しており、テクノロジーの発展に伴って変化は急速に変化する。したがって、骨組みは安定していない。

50、保守派の人々は愚かである。彼らは伝統的な価値観の衰退について泣き言を言いながら、熱狂的に技術の進歩と経済の成長を支持している。彼らはテクノロジーの急激な進歩には他の面での急激な変化が伴い、そしてこの変化は伝統的な価値観を破壊するということがわからないのだ。

51、この伝統的な価値観の崩壊は、伝統的な小規模の社交グループの崩壊をも意味している。これはしばしば現代社会が個人を地元から引き離し、引っ越す必要性を生み出すからだ。さらに、能率的に作動しているテクノロジー社会は、必ず家族や地元のコミュニティーの絆を弱める。なぜならば、個人の忠誠心はまず社会システムに捧げなければならず、小さなコミュニティーを優先させるのは社会システムにとって妨げになるからだ。

52、例えば公務員か法人の重役が、適任者よりも自分のいとこ、友人、または信仰仲間を職に指名したとしよう。彼は社会に対する忠誠心よりも、個人の忠誠心を優先させたわけで、これは現代社会にとって縁故主義。差別という重罪である。個人または地元に対する忠誠心を優先させた社会は、非常に効率が悪い(そのいい例がラテンアメリカである)。現代の産業社会は、飼い慣らされ、システムの道具にされた、無気力な小規模コミュニティーのみを容認する。[7]

53、人口過密、急速な変化とコミュニティーの崩壊が、大きな社会的な問題の原因として取り沙汰されている。しかしわれわれは、実際の問題はこれだけではないと考えている。

54、都市が工業化される以前でも、非常に大きく混み合っている町はいくつかあった。それなのにそこの住民は、現代人と同じ心理的問題に苦しんだ様子はみられない。また今日アメリカでは、それほど深刻でないにしろ、都会と同じ問題を抱えている田舎もある。したがって人口過密は決定的な要因ではないのだ。

55、アメリカの19世紀のフロンティア社会の人口の動きは、たぶん今日と同じように家族や小規模コミュニティー単位であっただろう。実際多くの核家族は好んで孤立をし、付近何キロも隣人がいない環境で暮らしていた。しかし彼らの間で昨今のような問題は存在しなかった。

56、さらにいうならば、アメリカフロンティア社会の変化は非常に急速で、大きかった。ある人間は法も秩序も存在しない丸太小屋で生まれ、野生の肉を食べて育ちながらも、歳をとった時分には定職を持ち秩序と法律のあるコミュニティーで暮らしていたかもしれない。これは通常の現代人の人生に起こるよりもずっと大きな変化だが、かといってそれが心理的な問題を引き起こしたことはなかった。実際19世紀のアメリカの社会には、現代社会とは違って、楽天的で、自信に満ち溢れた風潮があった。[8]

57、われわれが指摘する違いとは、現代人が変化は外部からもたらされるものであると感じているのに対して、19世紀の開拓民は自ら選択してその変化を生み出していると自覚していたことである。したがって開拓者は自分で土地を選び、そして自分の努力でそれを農場にした。当時はひとつの郡に数百人の住民がいただけかもしれず、現代社会よりもずっとそれぞれが孤立しており、多くの自治を手にしていた。そのために開拓農民たちは、小さなグループの一員として、新しいコミュニティーの創造に加わっていたのである。このコミュニティーの創造が社会改善を意味したかどうかという疑問は存在する。しかしとにかくそれは開拓者のパワープロセスへの必要性を満たせたのだ。

58、このほかにも、急速な変化があり、親密なコミュニティーが欠乏しながらも、今日の産業社会の持つ問題が存在しない社会の例をあげることができる。われわれが主張するのは、現代社会に存在する、社会的、あるいは心理的な問題は、人々が正常な方法でパワープロセスを通り抜ける機会が与えられないことに原因があるということだ。われわれは現代がパワープロセスを分裂させた唯一の社会であるというつもりではない。どの文明社会も、たぶん多かれ少なかれパワープロセスに影響を与えたであろう。しかし現代の産業社会ではこの問題は、特に強調された。少なくとも今世紀の中盤から後半にかけての左傾化は、このパワープロセス剝奪の原因のひとつとなってきた。

現代社会における、パワープロセスの崩壊

59、人間は追求心の度合いで三つのグループに分けることができる。それは(1)最低限の努力で満足することのできる人々(2)多大な努力の末に満足できる人々(3)どれほど努力をしても満足を得られない人々である。パワープロセスとは、2番目のグループの人々を満足させるプロセスである。3番目の人々は追求心が強ければ強いほど、結局欲求不満、怒り、そして結果的に敗北感、憂うつ感などを覚えるようになる。

60、現代の産業社会における人間の自然な追求心は、第1と第3のグループにあてはまりがちであり、第2グループの人々は常に新しい追求心を人工的に作り上げていく傾向にある。

61、一般的にいって原始的な社会で生存していくには、第2グループが適当である。目的は達成できるが、多大な努力が必要とされる。しかし現代社会は、最小限の努力と引き換えに大部分の人々の生存を保障する。[9]それゆえ、生存のための必要性は、第一グループに押し込まれる(職を保持するのに必要な努力が~最低限、かどうかというのは、意見の相違があるところであろう。しかし通常下位から中レベルの仕事の場合、努力とはほとんど従順であることを意味する場合が多い。言われた通りの場所に立ったり座ったりして、言われた通りのことを行うだけだ。自分自身で真剣に努力をする状況はほとんどなく、業務に自治性はほとんど存在しないため、パワープロセスの必要性は満たされていない)。

62、個人の状況にもよるが現代社会において性や愛、地位など社会的な需要は大概第2のグループに属する。[10]しかし地位に対する欲求が強い人々にとって社会的な要求を満たすことだけでは、彼らのパワープロセスを満たすのに不十分である。

63、ある種の人工的な欲求は第2グループにあてはまるように作られているためそれは、パワープロセスの必要性を満たしている。広告やマーケティング・テクニックは、人々に祖父母がほしいという夢すらも見なかったような物質への欲求をかき立てる。この人工的なニーズを満足させるために、人々は充分なお金を得るための膨大な努力をする。そのため、彼らは第2グループに該当する(第80~82項3照)。現代人は、広告やマーケティング産業と、そして代理活動によって引き起こされた人工的な欲求を追求することによって、パワープロセスの必要性を満足させなければならない。[11]

64、大多数の人々にとってこれらの人工パワープロセスが必要なようである。20世紀後半の社会評論家たちが繰り返して執筆してきたテーマは、現代の社会で多くの人々を苦しめる無目的の感覚である(この無目的はしばしば「アノミー」、「中産階級の空虚」といった他の名前でも呼ばれる)。実際には、しばしばいわゆる~アイデンティティの危機”が目標の欠如、また適当な代理活動への探索であることをわれわれは指摘する。実存主義とは、現代 生活の無目的に対する回答なのかもしれない。[12]現代の社会では、「生き甲斐」の探求が広く行きわたっている。しかし人生の主要な目的が生き甲斐の探求(代理活動)である人々が、本当の生き甲斐を見出すことはありえない。言い換えればそれは充分にパワープロ セスの必要性を満足させることができないのだ(第四一項参照)。これらの欲求は、肉体的要求、性、愛、地位、復讐など、外部に目標を置かなければ満たされることはない。

65、ほとんどの人々は金銭的利益を追い求め出世街道を昇るというような、社会システム内の目的を自治的に行える立場にはいない。労働者のほとんどは他人に雇われているわけで、われわれが第61項で述べたように人から指図を受けながら日々を過ごす。自営業の人々ですら、制限された自治を手にしているだけだ。これら中小企業や自営業の人々にとって、政府の規制でがんじがらめにされているというのは、常にいわれている不満である。これらの規制のいくつかは、明らかに不必要なものである。しかし大概これらの政府による規制は、われわれの複雑な社会システムのなかで不可欠なものなのだ。これらの中小企業の大部分はフランチャイズ・システムでの運営を行うところが多い。数年前に『ウォールストリート・ジャーナル』誌に掲載された記事によれば、これらのフランチャイズに投資する会社では入社希望者に適正テストを受けさせる。これは創造力とイニシアティブのある人材を除外するためで、これらの人材はフランチャイズシステムに必要な従順性に欠けるという報告だった。これは中小企業から自治権を必要とする人々の除外を意味する。

66、今日の人々は、自らが自分のためにできることよりも、システムがやってくれることに頼りながら生活をしている。そして自分のために行うことも、近頃ではシステムによって引かれたレール上でのみなされるようになってきた。チャンスというのはシステムが与えてくれるものであり、規則と規制に添っている場合のみ利用できる。[13]そして成功するチャンスがあるとすれば、それを進めるには専門家によって処方されたテクニックを使用しなければならない。

67、このようにわれわれの社会におけるパワープロセスは、本当の目的および自治の欠如によって崩壊させられている。また、ひとつには人々の要求がいくら努力をしても満足を得られないという第3グループに陥るため崩壊していることもある。これらの要求のひとつは、安定の必要である。われわれの生活は、他の人々によってなされた決定に依存しており、多くの場合われわれはこれらの決定した人々が誰なのかすら知らない(われわれが住む世界では、比較的少数の、多分500人から1000人ほどの人々によって重要な決定がなされている、ハーバード・ロースクール教授、フィリップ・B・ヘイマン執筆、引用アンソニー・ルイス、『ニューヨーク・タイムス』1995年4月21日)。われわれの生活は、原子力発電所の安全基準が適切に管理されているかどうか、われわれの食物にどの程度の殺虫剤が入っているのか、あるいはわれわれの空気がどの程度汚染されているのか、かかりつけの医師がどの程度の腕前か、政府の経済学者あるいは会社の重役によって仕事をクビになるかどうかなどによって影響を受ける。これらの事柄から身を守ることができる個人は、ごくわずかである。そのためにわれわれの安定への要求は欲求不満を覚え、これが無力感にもつながってくる。

68、平均寿命を考えれば、原始人の身体的安全保障は、現代人のそれよりも少なかった。そのために、現代人は身辺の安全にそれほど気をもまない。しかし精神的な安定は、身体的な安全とは何の関わりもない。精神的な安定とは、われわれが自分の面倒を見る能力に自信を持つというような、目的意識の安定ではない。猛獣や飢えに脅かされていた原始人は、自己を守ることも食料を探すこともできる。彼の努力が常に成功するという保証はどこにもないが、彼は彼を脅すものに対して無力ではない。一方現代人は、自分の力が及ばない多くの事柄に脅かされている。原発事故、食品の発ガン性物質、環境汚染、戦争、増税、大規模組織によるプライバシーの侵害、そして個人の生活を破壊するかもしれない経済や政治上の事象など。

69、原始人は、病気などの脅威に対して無力だったことは事実である。しかし彼は病気のリスクを受け入れることができる。それは自然の現象のひとつであり、想像上の悪魔のせいでないのなら誰の落ち度でもない。しかし現代人に対する脅威は、すべて人工のものである。それはたまたまふりかかってくることではなく、自分が影響を与えることのできない人物が決定した結果によって起こる。そのために、彼はストレスを感じ、屈辱感と怒りを覚える。

70、原始人は、大概の場合自分で安全を守ることができた(個人、あるいは彼が属する小規模グループによって)。その反面、現代人の安全は自分が影響を与えることのできない相手の手の中に握られている。そのため現代人の安全への欲求は第1と第3グループのなかに陥る傾向がある。食料、住居などの安定は最小限の努力で保障されている一方、他の分野では安全を保持できない(前述のことは、現状を大幅に簡略した状況ではあるが現代人と原始人の違いを大まかに説明している)。

71、人々は現代社会では必ず欲求不満を生じる要求や衝動を抱える場合があり、そのために第3グループに陥る。怒りを覚えた場合でも、現代社会では戦いは許されない。また多くの状況では、言葉による攻撃すら許されない。またどこかへ行く場合急ぐ人もいればゆっくりと旅行をしたい気分の人もいるだろう。しかし大抵の場合、交通の流れと信号に従って動く以外どうしようもない。またある人は、自分なりの方法で仕事をしたいと思うかもしれないが、たいていは雇用者の指示通りに働かなくてはならない。その他多くの場合、現代人は規則と規制によって縛られており、衝動が欲求不満に陥ってパワープロセスに影響を与える。そしてこれらの規則のほとんどは、産業社会にとって不可欠なものなので排除されることはない。

72、現代社会は、ある意味では非常に自由でもある。社会は、われわれが一般的に望むことを行わせてくれる。われわれは好きな宗教を信じることができ(それがシステムにとって危険な行為を奨励しない限り)、また誰とでも寝ることができる(「安全なセックス」を行う限り)。重要でないことは、われわれは好きなことができる。しかしシステムに重要な事柄は規制してくる傾向にある。

73、行動が規制されるのは、明白なルールや政府を通してのみではない。そのコントロールは間接的な強制あるいは心理的圧力や操作または政府以外の組織、そしてシステム全体によって行われる。もっとも大規模組織は、公衆の振る舞いを操作するのに、プロパガンダ[14]を使用する。プロパガンダは『コマーシャル』や広告に限定されていない。ときには制作した人々が、それとは意識せずにプロパガンダを作り上げる場合もある。例えば、娯楽番組の内容は、強力なプロパガンダの形式であり、間接的な誘導のサンプルである。われわれが毎日仕事に行かなければならず、そして雇用者の命令に従わなければならないという法律はどこにもない。野外で原始人のように生活したり、あるいは独立した自分のビジネスを作ることを妨げる法律はどこにもない。しかし現実的には、野生はもうほとんど残ってはおらずそして経済は限定された数の経営者しか養っていけない。それゆえにわれわれのほとんどが、誰かの従業員としてだけ生き残ることができる。

74、現代人は長寿と健康維持、そして年をとっても性的な魅力を維持することに取りつかれている。これは、パワープロセスの不満足から発する徴候であることをわれわれは主張する。中年クライシス」も、そのような徴候である。子供を作ることに関心がないのは、現代社会ではそれほど珍しくはないが、原始社会ではほとんど聞いたことがない。

75、原始的な社会における生活とは成功段階の連続である。一段階が終わると、何のためらいもなく次の段階に進む。若者は狩猟者になることによって、パワープロセスを通り抜ける。彼らの狩りとはスポーツではなく食事に必要な肉を得るためなのだ(若い女性の場合はもっと複雑なプロセスとなり社交力などが重要となってくる。しかしここではそれには触れない)。この段階が首尾よく終わると若者はためらいなく家族を養い始める(それに比較して、現代社会では生き甲斐を求めることで忙しいために、子供を作ることを延期する人々がいる。彼らが本当に必要としているのは、代理活動などの人工的なものではなく、実際にパワープロセスが体験できる目標なのである)。こうして子供たちに必要なものを与えることによってパワープロセスを体験し、育児が無事に終わると、原始人は自分の役割が終わり老い(もしそれほど長生きすれば)と死を受け入れる準備ができる。その一方、現代人は肉体の衰えと死を受け入れることができずに、可能な限り若さと健康を保とうと奔走する。これは、彼らがそれまで肉体を真の生き甲斐に使用する機会が得られず体を使ってパワープロセスを体験できなかったためだと主張しよう。老いを恐れるのは、毎日実用的なことに体を使っていた原始人ではなく、家の中や車に歩いていく以上に肉体を使っていない現代人なのだ。パワープロセスをうまく切り抜けた者だけが、人生の終わりをも冷静に受け入れることができる。

76、このセクションでの論議に関して、「社会が人々にパワープロセスを通る機会を与えるべきなのだ」と言う者もいるだろう。これらの人々は機会とは社会が与えてくれるものだと思ってしまっている。社会が機会を与えている限り、それは鎖が付いている。自治を獲得するためには、まず鎖を断ち切らなくてはならないのだ。

人々の順応方法

77、產業テクノロジー社会のなかの全員が心理的な問題で苦しむというわけではない。人によっては、現在の社会にまったく満足しているように装っている。ここでは、われわれはなぜ人によって現代社会に対する対応がまったく異なるのかということについて論議する。

78、まず最初に、権力に対する欲求の度合いは明らかに個人差がある。権力に対する欲求が少ない人間は、パワープロセスをあまり必要とはせず、少なくともパワープロセスのなかに自治性を求める必要はほとんどない。彼らは昔の南部のプランテーションで働いていた従順な黒人のタイプである(われわれは南部のプランテーションで働いていた黒人の奴隷を揶揄する意図はない。大部分の黒人は奴隷に甘んじていたわけではない。われわれが揶揄しているのは、奴隷であることに満足をしている人々である)。

79、権力に対する欲求が平均より強い人々もいる。このような人々は出世街道をまっしぐらに進むというゲームを飽きもせずに一生続ける

80、人々が広告とマーケティング技術から受ける影響は人によって異なる。ある人々は非常に影響を受けやすく、どれほど収入が多くてもマーケティング産業がぶら下げ輝く目新しいおもちゃを常に渇望して満足を覚えることがない。そのため収入は充分でも常に財政的には苦境にあるように感じてしまう。

81、また人によっては広告とマーケティング技術にほとんど影響されることがない。これらはお金に興味を持っていない人々である。物質の獲得は、彼らのパワープロセスには必要ではないのだ。

82、広告とマーケティングに対して普通の影響を受ける人々は真剣な努力の末(残業、仕事のかけ持ち、昇進への努力など)、充分な収入を得て自らが望む物質を得て満足することができる。物質の獲得は彼らのパワープロセスに必要なことである。しかし彼らのパワープロセスのなかの自治性に問題があるかもしれず(業務上、指令を受けることばかりかもしれない)、彼らの欲求(安定、攻撃性など)が満たされていない場合もある(われわれは第63項で物質獲得に対する欲望は、完全に広告マーケティングの創造であると述べたが、もちろん現実はそれほど単純ではない。あれは多分に誇張しすぎたことを認める)。

83、強力な組織や巨大な運動に共感することによって権力への欲求を満足させる人々もいる。権力や目標を持たない個人は運動や組織に参加してその目標を自らの目標にする。それらの目標がいくらか達成されたとき彼個人の努力は些細な役割しか果たさなかったとしても彼は自らがパワープロセスを通り抜けたかのように満足感を感じる。これらの現象は、ファシスト、ナチス、共産主義者などによって遂行された。そこまで残虐ではなくてもわれわれの社会でも利用されている。例として、マニュエル・ノリエガは米国にとって邪魔者であった(目的、ノリエガを罰する)。米国はパナマを侵略して(努力)、ノリエガを罰した(ゴールの達成)。こうして米国はパワープロセスを通り抜けた。そして大勢のアメリカ人は、国家と同調してパワープロセスを体験した。そのために、パナマ侵略に賛同したアメリカ人が多かったのは事実である。[15]「われわれは、軍や株式会社、政党、人道主義的運動、宗教やイデオロギー運動で同じ現象を見る。特に左翼運動は、権力の必要性を感じる人々を引きつける傾向がある。しかし誰でも大きな組織や運動との同化によって、権力の必要性を満足させるというわけではない。

84、人々がパワープロセスの必要性を満足させるもうひとつの方法は代理活動を通すことである。第38~40項で説明したように代理活動とは個人が「生き甲斐」のために人工的に設置する目標であり、その達成そのものに必要性はない。例えば、巨大な筋肉を体につけることや、ボールを打って小さな穴に入れること、切手のシリーズを完璧に揃えることなどにどんな実際的な意味もない。それなのに世の中ではボディビルディングやゴルフ、切手収集に情熱を費やす人々は多い。なかには周りにおだてられてこの代理活動に夢中になる人々もいる。スポーツやブリッジ、チェス、神秘主義の追求など、くだらないことに真剣になる人々もいる一方、これらのものがたんなる代理活動であって、とるに足らないと感じる人々もいる。その場合彼らはこれをパワープロセスのなかに取り入れない。見方によっては、生活の手段すらも代理活動である場合もある。これが肉体維持のためであり、また社会的地位のためであり、広告に刺激された贅沢のためであることを考えると、純粋にそうだとはいえない。しかし多くの人々は、単純に金銭と社会的地位に必要な分以上のエネルギーを注ぎ込む。この余分な努力が代理活動といえる部分だ。この余分な努力とそれに伴う感情的な投資が、システムの継続的な発展に対してもっとも有力な力のひとつであり、そして個人の自由には否定的な結果を与えているのだ(第131項3照)。もっとも独創的な科学者とエンジニアにとっての仕事とは、代理活動である傾向が多大にある。これは非常に重要なポイントであるため、のちに別個にこれを論ずる(第87~92項3照)。

85、このセクションでは、現代の社会の中で大かれ小かれパワープロセスの必要性を満足させている人々も多いということを説明した。しかしわれわれは大多数の人々は、パワープロセスの必要性が充分に満たされていないと考える。第一に、飽くことのない地位への欲望を持つ人、あるいは代理活動の中毒になった人物、そして組織物運動の活動によって満足を覚える人などは、むしろ例外だと考える。大多数の人々は、代理活動や組織と同化することに満足はしていない(第41、61項3照)。そして第二にシステムは自治を否定する社会化などを通して、目標を達成するのがほとんど不可能なほどの規制で人々を拘束している。

86、たとえこの産業テクノロジー社会にほとんどの人々が満足していたとしても、われわれFCはこの社会形態に反対をする。その理由は数多あるが、ひとつにはこの社会がわれわれのパワープロセスを代理活動や組織との同化などでごまかして、本来の目的を持つことを阻止しているからである。

科学者の動機

87、科学とテクノロジーは代理活動のもっとも重要なサンプルである。彼らは動機として「好奇心」あるいは「人類への貢献」などという観念を掲げている。しかしこれらが彼らの主流の動機でないことは明らかだ。「好奇心」は、あまりにも不合理だ。ほとんどの科学者の研究題材は、極端に専門的なため一般人の好奇心の対象に成りえない。天文学者、数学者、昆虫学者はイソプロピルトリメチルアメタンの特性について興味があるだろうか?あるわけはない。そんなことを知りたいのは化学者だけで、化学者にとっては化学が彼の代理活動なのである。化学者は、カブトムシの新しい種属の適切な分類法に興味があるか?そんな問題は、昆虫学者しか興味がない。そして昆虫学が彼の代理活動なのである。もしも化学者と昆虫学者が生活をするために努力が必要で、その努力が興味深い方法で彼らの能力を要求すれば、科学とは何の関わり合いもないことであっても、イソプロピルトリメチルメタンやカブトムシの分類法などに興味は持たなかったであろう。例えば、博士号コースの資金援助が打ち切られたために、彼は化学者ではなく保険のブローカーになったとしよう。その場合は彼の興味の対象は保険であって、イソプロピルトリメチルメタンなどではなかったはずである。とにかく科学者たちが仕事に費やす時間と情熱は、普通ではない。これは「好奇心」などではとうてい説明がつかないものであろう。

88、「人類への貢献」もあまりよい言い訳にはならない。科学関係の仕事のなかには、例えば考古学や比較言語学などのように人類の福祉にまったく何の関係もない分野もある。またなかには人類にとって危険な可能性を与える研究もある。これらの科学者も、ワクチンや大気汚染の研究をする科学者たちと同じくらい熱心である。原子力開発の促進に精神的な関わり合いを持ったエドワード・テラー博士の一件を考慮してみよう。この熱意は人類に肯定する顔望に起因しているのか?それならばなぜテラー博士は他の「人道主義的」な事件に感情移入をしなかったのか?彼がヒューマニストであったのなら、なぜ水素爆弾の開発に貢献したのか?原子力が人類に貢献したかどうかというのは、現在でも答えの出ていない疑問である。安い電力は、有害な廃棄物と事故の危険のリスクよりも大切か?テラー博士はこの問題の一面しか見なかった。原子力への彼の思い入れは、明らかに「人類への貢献」から発しているのではなく、個人的に仕事上の生き甲斐を感じてその実用化を願ったのである。

89、同じことが一般的に科学者にもあてはまる。ごく少数の例外を除くと彼らの動機は、好奇心でも人類への貢献でもなく、パワープロセスを通り抜けることにある。目的を持ち(解明すべき科学的題材)、努力をして(研究)、そして目標を達成する(題材の解明)。科学者の仕事とは、本人が業務から引き出す生き甲斐なので、これは代理活動である。

90、もちろん事はそれほど単純ではない。他の動機を持つ科学者も多数いる。例えば金銭と社会的地位など。科学者のなかには、地位に飽くことのない欲望を持つタイプがいるかもしれず(第79項3照)、これが彼らの仕事の動機の大部分であるかもしれない。さらに科学者も多くの一般人のように、広告とマーケティング技術によって物質欲を刺激され、金銭の必要性を感じて働いているのかもしれない。したがって、科学のすべてが代理活動というわけではない。しかしその大部分が代理活動であるといえるだろう。

91、科学とテクノロジーは社会の大きな動きを作り出す場合がある。多くの科学者は、この動きに同化して、自分の権力欲を満足させる(第83項3照)。

92、科学者たちは人類の利益など顧みず、自分の欲望と政府、資金を供給する企業幹部などにだけ服従して盲目的に研究に没頭している。

自由の本質

93、われわれは、産業テクノロジー社会が人間の自由な世界を徐々に狭めていくような形で改革されてはならないと主張する。しかし「自由」とはさまざまな解釈が可能な言葉であるから、まず始めにわれわれが問う「自由」とは何かを明確にしなくてはならない。94、「自由」とは、代理活動から生まれた偽りの目的ではなく、真の目的を持って、パワープロセスを戦い抜く機会を与えられることである。妨害されることなく、誰かに操られることなく、誰からも監視をされることなく、ましてやそれがいかなる大きな組織から与えられたものでもない。自由とは個人としてあるいは小規模グループの一員として、自己存在の生死に関わる問題、すなわち食料、医療、住居、さらには身のまわりのあらゆる脅威からの自己防衛の問題を管理できる環境にあることをいう。自由とは、力だ。それは他人をコントロールする力ではなく、己の人生をコントロールする力である。もし誰かが――それが大きい組織であればなおさら―自分をコントロールしているのであれば自由はないのである。それがどんなに慈悲深く、寛大で、寛容なものであっても。自由というものを、たんなる寛大さと勘違いしてはならない(第72項参照)。

95、われわれには憲法上保障されている権利がそれ相応にあるのでわれわれが自由な社会に住んでいると一般的には思われている。しかしこれはみなが思っているほど重要ではない。社会に存在する個人の自由の程度とは、法律や政府の形態以上にその社会の経済やテクノロジーの構造によって規定されるのである。ニューイングランド地方のインディアン部族はほとんど専制政治であったし、イタリアのルネッサンス時代の市の多くは、独裁者によって支配されていた。しかしながらこれらの社会についての本を読むと、われわれの社会よりもはるかに個々の自由が保障されていたような印象を得る。なぜかといえば、その頃には独裁者の力を効率よく末端に行きわたらせるようなメカニズムがなかったからである。近代的でしっかりと組織された警察力も、迅速な長距離通信手段も、監視カメラもなく、平均的な一般大衆の生活レベルを報告するような文書も出まわっていなかった。それゆえ、コントロールされるのを避けることは、比較的容易だった。

96、憲法上で保障されているわれわれの権利について、例えば報道の自由について考えてみよう。われわれは間違ってもそれを批判するつもりはない。これは権力の集中を防ぐとても重要なツールであり、これによって不正行為をした者を公共の場にさらけ出し、権力者の秩序を保つことができるのである。ただし平均的な個々の市民にとっては報道の自由は特に意味をなさない。マスメディアはほとんどの場合体制の一部になってしまっている大規模組織にコントロールされている。ほんのわずかのお金で、誰でも自分の考えをビラにしてまいたり、インターネット上で発表できるが、マスメディアによって大量に流されてくる情報によって簡単に飲み込まれてしまい現実的に影響力を持つことはほとんどない。言葉によって社会に影響をもたらすことは、ほとんどの一個人や小規模グループにとってほぼ不可能なことである。われわれを例にとってみよう。もしわれわれが暴力に訴えることなく、この声明文を出版社に持ち込んでいたら、たぶん相手にはされなかったであろう。仮に受けとってもらうことができ、掲載されたとしてもおそらくそれほど多くの読者を惹きつけることはできなかったであろう。なぜならば、堅いエッセーを読むよりも、メディアによって作られた娯楽番組を見ている方が楽しいからである。万が一この声明文が多くの人々に読まれたとしても、ほとんどの読者が、すぐに何について書いてあったのか忘れてしまうだろう。われわれのメッセージを公衆に強く印象づけるため、人を殺さなくてはならなかった。

97、憲法上の権利は、ある程度までは役に立つ。しかしそれはブルジョア的解釈ともいうべき自由以上のものを保障するものではない。ブルジョア的解釈による「自由」な人間とは、結局のところ社会の歯車のひとつでしかなく、制約され、処方された自由を持っているにすぎない。それは個人よりも社会の歯車としての需要を満たすために、デザインされた自由である。ゆえにブルジョア的「自由」人は、成長と進歩を促す経済的自由があるといえる。一般大衆による批判は、政治家たちの不正行為を制約できるという点において、彼らには報道の自由があるといえる。権力者の気まぐれで牢獄にぶち込むというのは、システムにとってよくないことであるから、彼らは公正に裁判を受ける権利があるのだ。これはサイモン・ボリバーが明確にとった立場である。彼によると、進歩(ブルジョア的解釈による進歩)を促進させるためにのみ、人々は自由を求めるのだ。他のブルジョア思想家たちは、たんなる共同体の手段の自由として、似たような見解を示している。『20世紀の中国政治思想』(チェスター・C・タン著)は、202ページで国民党の指導者フ・ハンミンの哲学を論じている。社会の一員であるゆえに、個々の人間は権利を与えられる。コミュニティーにおける生活は、そのような権利を必要とする」コミュニティーという言葉によって、フは国家の中の社会全体を意味した。そして259ページ目でタンは、カルサム・チャン(中国共産党の党首、チャン・チュンマイ)によると自由は国家利益のために行使されなくてはならず、全人民のためのものでなくてはならないと述べている。しかし、他人が規定する自由しかないのであれば、いったいどんな自由が彼を待っているというのであろうか。FCの解釈する自由とは、ボリバルやフ、チャンやその他のブルジョア理論家の考える自由ではない。そのような理論家たちの問題は、社会理論の発展や応用を代理活動にしてしまったことだ。結果的に、そのような理論は理論を押しつけられてできた社会の中で不幸にも生きていかなければならない人々のためよりも、理論家たちのニーズのために作り上げられたものなのだ。

98、もうひとつ、このセクションで指摘しておくことがある。ただたんに充分に自由があると本人が主張してもその人間が本当に自由を保障されていると考えてはならない。それは、自由とは人間が無意識のうちに心理的なコントロールを制約されてしまうものであり、さらに加えると多くの人々が考える自由を形成するものは、本来の必要性よりも社会の便宜に添ってしまいがちだからだ。例えば過剰社会化されたタイプの左翼たちは、彼ら自身を含めたほとんどの人々は過剰社会化されていないと主張するであろう。しかしその過剰社会化左翼は、高度な社会化のために重い心理的代償を払っているのである。

歴史のいくつかの原則

99、歴史が2つの要素から成っていると仮定しよう。ひとつは予測不可能で不安定な出来事、そしてもうひとつは歴史上繰り返されてきた長期的トレンド。われわれはここでは長期的なトレンドについて取り上げる。

100、第一の原則。もしも歴史上で長期的トレンドに対して小規模な変化を起こしても、その影響は一時的なもので、いずれは元の状態に戻るであろう(例:政治腐敗を取り締まるための改革は、常に短期間で効果が薄れてしまう。改革者はしばらくすると気が抜けてしまい、再び汚職が始まる。政治腐敗は社会の発展に伴って常に存在してきた要素である。汚職の一掃は、大がかりな変化でのみ可能なことであり、小規模な変化では対応できない)。歴史上の長期的トレンドに対して小規模の変化が普遍的な影響を与えた場合、それはたんにトレンドがすでにそちらの方向に向かっていたという事情にすぎない。

101、最初の原則は、ほとんど同義語の繰り返しである。小さな変化に対してそのトレンドが安定していない場合、それは一定の方向に動いているのではなく変化をしており、言い換えればそれは少しも長期のトレンドではない

102、第2の原則……もしも変化が長期的トレンドを変えるほど大きいのなら、それは社会全体を変えることができる。言い換えれば社会は、すべての部分が相互関係にあるシステムである。他の部分に変化を与えることなしに、普遍的で大きな変化は起こらない。

103、第3の原則……もし変化が長期的なトレンドを変えるほど大きいのなら、それによって起こる社会の変化は事前に予測することはできない(しかしもしも他の社会がそれと同じ変化をすでに経験しているのなら、それに添って結果を予測することは可能である)。

104、第4の原則…..新しいタイプの社会は、理論上でデザインすることはできない。これは新しい形式の社会をあらかじめデザインして、それに基づいて機能することが期待できないという意味である。

105、3番目と4番目の原則は人間社会の複雑さから生じている。人類の行動の変化は、社会経済とその環境に影響を及ぼす。経済と環境は互いに影響を及ぼし合って、その変化は人類の行動に複雑で予測不可能な方法で影響を与える。この原因と影響のネットワークは、お互い複雑に絡み合っている。

106、第5の原則……人々は意識して合理的に社会の形式を選ぶというわけではない。社会の発展は、人間の論理的なコントロール下以外のプロセスを通して発達する。

107、5番目の原則は、他の4つの結果である。

108、具体実例を出すと、以下のようになる。最初の原則によれば社会はそのトレンドの傾向に変化するか(この場合、変化はそれほど目立たない)、そうでなければ変化は一時的なもので、社会はすぐに元の形に戻っていく。普遍的で重要な変化を社会に起こすためには、改革は不充分であり、革命が必要とされる(革命とは、必ずしも暴力や政府の転覆を指しているとは限らない)。第2の原則によれば、革命は社会の一面だけを変えるのではなく、変化は全体に及ぶ。そして第3の原則によると、この変化によって革命家が考えてもみなかったことが起こる。そして第4の原則により、革命家が新しいユートピアを設計しても、それはけっして計画通りに機能しない。

109、アメリカ独立革命は、他に類を見ないものだった。アメリカの「革命」はわれわれの感覚でいう革命ではなく、独立戦争とそれに続く広範囲の政治改革であった。米国憲法制定者はアメリカ社会の発展方向を変えたわけでも、そう願ったわけでもなかった。彼らはイギリス支配の影響からアメリカ社会の発展を解放した。政治改革は基本的なトレンドを変えなかったが、アメリカが政治的、そして文化的に向かっていた方角に後押しをする役割を果たした。アメリカ社会の基盤となったイギリス社会は、長い間民主主義の方向へと傾きつつあった。そして独立戦争の前に、アメリカ人はすでに植民地社会の中で代表民主主義の形態を体験ずみであった。議会によって確立した政治社会は、イギリスのシステムと植民地社会をモデルとしていた。米国憲法制定者が非常に重要なステップをとったという事実は、疑いもない。しかし、それは英語世界がすでに進んでいた道に沿ったステップであった。その証拠に、イギリスとイギリス植民地のほとんどは、基本的にアメリカ合衆国に似かよった代表民主主義のシステムになってしまっている。もし米国憲法制定者が気を変えて、独立宣言に署名することを断ったとしても、今日のわれわれの日常はそれほど変わらなかっただろう。もしかしたら、イギリスとの絆は今日よりも少し強く、議会と大統領の代わりに国会と首相があったかもしれない。それも大した影響ではない。アメリカ独立革命は、われわれの原則への見本ではないが、よい具体例である。

110、もっとも原則を適用するのは、常識を必要とする。これらは解釈の幅を広げ、例外の存在を認めるためにときには曖昧な表現で記されている。そこでわれわれはこれを侵すべからざる法律ではなく、未来社会を志向する際の大まかなガイドとして提案する。これを常に念頭に置いて、これと矛盾した結論に行き当たった場合は慎重に再考する材料としてほしい。

産業テクノロジー社会の改革は不可能

111、前述の原則は、産業システムがわれわれの自由をしだいに狭めていくのを食いとめることがいかに難しいか理解する参考となった。個人の自由と地方自治を犠牲として発展したテクノロジーは、少なくとも産業革命にまで遡ることができる。そのため、テクノロジーから自由を守るためのどんな試みも、われわれの社会の発展における基本的な傾向と敵対する。結果的に、そのような変化は一時的なものですぐに歴史のなかに押し流されていってしまうか、あるいは普遍的なレベルのものであれば、社会全体を変化させることになるだろう。これは第1と第2の原則に添っている。さらに、社会は予測できない方向に変化をするため(第3の原則)、これには大きなリスクが伴う。自由のために普遍的で大きな変化を起こすことは、システムの崩壊につながるために、率先されはしないであろう。そして改革の試みは効果的なほど大きな規模では行われない。たとえ改革が試みられたとしてもそれがシステムの崩壊につながると悟られた時点で、握りつぶされることになるだろう。そこで自由のための普遍的変化は、危険を覚悟し、急激で予測できない変化を受け入れる準備のある人間によってのみ引き起こされることができる。これは改革者ではなく、革命家である。

112、テクノロジーの恩寵を捨てずに、自由を得たいと切望する人々は、テクノロジーと自由を調和させる新しい社会という都合のよい計画を提案する。彼らから具体的な社会形態の案が出てくることはめったにないという事実は別にしても、第4の原則で述べたようにこのようにして計画された社会は、最初の予想とはまったく違った方向に発展をしていくものなのだ。

113、自由と現代テクノロジーを両立させるような場は、ありそうもない。次のセクションでは、なぜ自由とテクノロジーの発展が両立しないかという具体的な理由を述べる。

産業社会では避けられない自由の制限

114、第65~67、70、73項で説明したように、現代社会に生きる人間は規則や規定の鎖で縛られており、自分とはまったく関係のない人物によって運命を左右されてしまう。これは偶然でもなければ、官僚の気まぐれの結果でもない。テクノロジーの進歩した社会においては、これは避けられない現象なのだ。社会のシステムは人間の行動を細かにうかがって管理しなければ機能しない。仕事の場において、人々が言われた通りに動かなかったら、生産過程は崩壊する。官僚社会とは、厳格な規定に従わなければ機能しないものなのである。諸問題に対して個人に裁量を下す権限を下級官僚に与えてしまったら、個々の官僚によってそれぞれ異なる対応が不公平を招くばかりか、社会のシステムが崩壊してしまう。われわれの自由を拘束する要素をいくぶんかは減少させることはできるが、産業テクノロジー・システムが機能するためには大きな組織によってわれわれの生活が縛られるのは必須条件なのだ。その結果、普通の人間は自分を途方もなく無力と感じるようになる。しかし社会による管理は、いつの間にかわれわれの思考回路に入り込み、影響を与えることがある。つまり社会の望むような行動をとりたいとわれわれがあたかも自発的であるかのように感じるようになるのである(プロパガンダ、[17]教育技術、「精神衛生」プログラムなど)。

115、社会は、その自然の本能とはまったく違った行動をとるように人間を改変する。例えば、社会には科学者、数学者、エンジニアなどが必要である。彼らなしでは社会は機能しないため、子供たちはこれらの分野で良い成績を収めるように強いられる。思春期を迎えた人間が机に向かって膨大な時間を勉学に費やすのは、自然の摂理に反することだ。通常十代の少年とは外に出ていって、現実の世界にじかに触れることを求めるのが自然である。原始的な生活を営んでいる人々の間では、子供たちはもっと自然の人間の本能に調和した遊び方、学び方をしている。たとえばアメリカン・インディアンの少年はみんな外に出て探検をしておいで、と言われて育つ。それこそまさに少年らしい遊び方だ。しかしわれわれの社会においては、子供たちは机に向かって、勉強しろとせかされる。子供達はそれを嫌々ながら片付けなければならないのだ。

116、われわれは行動パターンを変えるように社会から絶たえず押しつけられている。そのため社会の求めるものに添えない人々が増えてきている。無職で、福祉の恩恵に頼って生きる人々、青年ギャング団、カルト宗教の信者、反政府活動家、過激な環境保護主義者、中退者、そしてあらゆる種類の反体制主義者である。

117、テクノロジーの進歩した社会では、個人の運命は常に当人の希望などはほとんど届かないところで決定される。テクノロジー社会は小さな、それぞれ独立した共同体の集まりには分化しえない。なぜなら大勢の人間、たくさんの機械の共同作業によってこそ社会の規模に見合うだけの生産が可能であるからだ。つまりこのような社会は高度に組織化されていなければならないし、よってそこでの決定は多数の人々に影響を及ぼすものとなる。(例えば影響が百万人におよぶものならば、その各々が有する選択権はわずか百万分の一ということになる。現実的には、これらの決定は官僚や企業重役、あるいは技術専門家などによって行われる。たとえ投票によって行われる場合でも、全体の数から見れば個人の果たす役割などほとんど無に等しい。[17]ほとんどの個人は、自分の人生を左右する決定に関与することができないのだ。テクノロジーが発展した社会では、これは避けて通ることのできない事実である。システムはプロパガンダを用いて、人々が与えられた決定で満足に感じるように仕向けるという「解決法」を試みている。しかしこの「解決法」がたとえ成功したとしても、それは人類への屈辱にほかならない。)

118、保守派その他のグループは、もっと「地方自治」をと呼びかけている。確かに地域の共同体は、以前は自治権を持っていた。しかし地域の共同体がより大規模なシステム、例えば公共の施設、コンピュータ・ネットワーク、マスメデイア、高速道路、近代的医療ケアシステムなどに依存し、その一部となるにつれてその自治力はどんどん弱まってきた。さらに、ある地域で使われたテクノロジーがずっと遠くの地域に影響を及ぼしうることも、地方自治を弱める一因になっている。ある小川の近くで殺虫剤などの化学薬品を使用すると、何百キロも下流で採取する水も汚染されてしまう。また温室効果は地球全体に影響を及ぼしている。

119、このシステムは人間にとっての需要を満たすことはしない。そもそもシステムは、人間の需要を満たすこができない。むしろ人間の行動パターンをシステムの需要にかなうように変革するのである。一見そのテクノロジーを動かしているかのように見える政治、あるいは社会のイデオロギーも、これにはいっさい関係ない。これはテクノロジーそのものに内在する問題である。というのも、テクノロジーはイデオロギーによって動いているものではなく、技術的な必要性に応じて動いているからだ。[18]もちろんシステムによって人間の需要もある程度満たされはする。しかし一般的にいって、システムが人間の器題を満たしてくれるのは、それがシステム自体のためになる場合のみである。つまり根本的に重要なのは、システムにとっての需要であり、人間の需要ではないのだ。例えばシステムは人間に食べ物を供給する。しかしそれはすべての人が餓死したらシステムが機能しなくなってしまうからだ。システムはまた、精神的ケアを求める人間にはそれを供給する。しかしそれはそうすることがシステムに有利である場合のみである。すなわちあまりにも多くの人々がうつ状態に陥ったり、反抗的であったりすると、システムの存続に関わるのだ。ところがシステムはその需要をかなえるために絶えず人間に行動パターンを変えるように求め続ける。ゴミ捨て場が溢れてくれば、あっという間に政府、メディア、教育機関に環境保護主義者、みんな揃って声高にリサイクルを叫び始める。技術系の人材がもっと必要となれば、子供たちにもっと理科系の勉強をさせろと大合唱になる。十代の子供たちが机に向かって興味もない学科の勉強にその一日の大半を費やすように押しつけられる。そのように強制させられることが人間的かどうか、誰も疑問に思わない。熟練作業員たちが技術の進歩によって解雇され、「再トレーニング」を受けさせられる。そのようにふりまわされることが屈辱的ではないかとは、誰も考えない。誰もが揃ってテクノロジーの需要を満たすべく奉仕していくのが当たり前のようにまかり通っているのだ。なぜならば、もし人間の需要がテクノロジーの需要より重要視されたら、失業者が溢れ、物資は不足し、経済が破綻してしまう。われわれの社会における精神衛生」の概念は、人間がシステムの需要に沿って行動し、それによるストレスの徴候を見せないのが健康な状態という考えなのである。

120、システムのなかに人間的な目的意識と自律性を少しでももたらそうとするのは冗談にほかならない。例えばある会社は、個々の社員がカタログの一部を作る代わりにそれぞれが一冊のカタログを端から鱗まで作るようにしたという。それによって社員ひとりひとりに目的意識を持たせ、仕事を完成する喜びを与えるというわけだ。社員それぞれにもっと自由な裁量を持たせようと試みた会社もあった。しかし現実問題として、それは非常に限られた範囲での自由でしかない。いずれにせよ、個々の社員はけっして会社としての最終的な目標には何ら発権を持っていないのだ。社員ひとりひとりが自由な裁量によって目指す先にあるのは、彼らが個人として選んだ目標ではない。結局それは雇用者によって決められた目標、例えば会社の在続と発展などに向けられている。個々の社員に会社の目標に従わずに働くことを許す会社など、早々につぶれてしまうのは明白である。社会主義システムの公共事業においても同様に、労働者はその事業の目標に沿って働かなくてはならない。個々の事業がうまくいかないと、システムは全体に支障をきたしてしまう。繰り返すが、純粋に技術的な理由により産業社会では大方の個人や小規模団体はほとんど自由な裁量を持ちえないのだ。そういった意味では中小企業の経営者でも、限られた裁量しか持たない。政府のさまざまな規定に従わなければならないだけでなく、より大きな経済システムにうまく適合し、そのルールに従って生産活動をしなければならない。例えば新しい科学技術が発明されれば、好むと好まざるとにかかわらず、経済競争に生き残るためにその技術を取り入れざるを得ない。

テクノロジーの「良い」部分と「悪い」部分の切り離しは不可能である

121、人間の自由を取り戻すべく、産業社会を改造することが不可能である理由は、もうひとつある。それは現代テクノロジーはそれ自体が統一の総合システムであって、細部がお互いに依存し合っているためだ。テクノロジーの「良い」部分だけを残して、「悪い」部分を取り除くことはできない。現代の医療品を例にとろう。医学の進歩は、化学、物理学、生物学、コンピュータ科学などの発展にかかっている。高度に発達した医療は、テクノロジーの発達した経済的に豊かな社会でのみ可能だ。明らかにテクノロジーのシステム及びそれに伴うあらゆる測度、設備なしでは医学の発達は望めないのである。

122、もし仮に医学の発展がそれ以外のテクノロジー・システムなしでも可能だった場合でも、医学の発展自体が害になりうる。例えば糖尿病の治療法が発見されるとする。すると、遺伝的に糖尿病にかかりやすい人も、健康な人と同じように長生きをし、子孫を増やすことができるようになる。糖尿病を排除しようとする自然淘汰は中断され、糖尿病にかかりやすい遺伝子が跳梁することになる(これはすでにある程度現実化している問題だ。糖尿病の治療法はまだ見つかっていないが、インシュリンによって症状の制御はできる)。遺伝的に発病しやすい病気ではおしなべて、この糖尿病のように自然の選択が機能しなくなるであろう。これに対する唯一の解決法は、なんらかの優生上の人口管理、あるいは遺伝子操作であろう。つまり本来の人間はもはや自然、偶然、あるいは神の(個人の信条によって異なるが)創造ではなく、工業産物となってしまうのだ。

123、もしあなたが、すでに政府が個人の生活に干渉しすぎだと感じているなら、政府があなたの子供の遺伝子的体質を規定し始める日もそう遠くないことを肝に命じてほしい。そしてそのような管理に続いて必然的に起こるのは、人類の遺伝子操作である。遺伝子工学に何の規制もしなければ、とんでもない結果になるからだ。[19]

124、こうした問題において必ず登場するのが、「医学倫理」である。しかし医学の発展においては、倫理の法則は自由を守る手段とはなりえない。むしろ事態を悪化させるだけなのだ。遺伝子工学に適用される倫理の法則とは、実際のところ人類の遺伝的体質を規定する手段以外の何ものでもない。倫理的に「良い」遺伝子工学の適用法とはこうである、と誰か(おそらくは上流・中流階級の)が決定する。つまりその人物の価値観によって、その社会の構成人員全体の遺伝子的体質が左右されてしまうのだ。ここで倫理の法律が完全に民主的に決められたとしても、やはりそれは遺伝子工学において何が「倫理的」であるかという大多数の人々の価値観を、異なる意見を持つ少数派に押しつけることになる。本当に自由を守りうるような唯一の倫理の法則とは、人類に遺伝子操作をいっさい禁じることである。しかしテクノロジー社会ではそのような倫理はけっして受け入れられない。遺伝子工学を表舞台から下ろすような法律は支持を得られないのだ。バイオテクノロジーの持つ可能性はあまりにも大きく、これを使わない手はないと思わせてしまう。特に精神的、身体的病気をなくしたり、今日の世界で生き延びていくために必要な能力を人々に与えるなどといったバイオテクノロジーの利用法は、多くの人々にとって議論の余地なくいいものに見える。こうして遺伝子工学は多岐にわたって適用されるようになるのだが、それは産業テクノロジー・システムの繁栄にのみ有利なやり方で行われるのだ。[20]

テクノロジーは自由への希求よりも強力な、社会の原動力

125、テクノロジーと自由との間でバランスをとろうとしても、長くは続かない。なぜならばテクノロジーの方が社会の原動力としてはるかに強力であり、絶え間ない妥協を強いて自由を浸食していくからである。隣り合った土地に住む2人が、それぞれ同じ大きさの土地を持っており、片方はもう片方の人間よりもずっと強かったとしよう。強い方の人間が、弱い方の土地を要求する。弱い方は拒絶する。そこで強い方は、「では妥協するから、半分をよこせ」と言えば、弱い方は受け入れるしかない。しばらくたつと、強い方は再び土地を要求する。再び折衝し、弱い方の土地が削られる。こうして最後には、強い方が弱い方の土地をすべて没収してしまうのだ。これとまったく同じことが、テクノロジーと自由の間で起きている。

126、ここでなぜテクノロジーが自由への希求よりも強力なのか、説明をしよう。

127、初めは自由を脅かすものではないように見えたテクノロジーが、実は自由に対する深刻な脅威となることがある。例えば自動車がそうだった。以前人間は歩いてどこへでも行くことができた。好きなペースで交通規則にも縛られず、テクノロジーによる補充システムなどを必要とせずに。自動車が発明された当時、人間の自由は広がったように見えた。自動車がほしくなければ買わなくてもいっこうにかまわなかった。ただし自動車を買った人々は、歩いている人々よりもずっと速く、遠くへ移動することができる。自動車はすぐに社会を変え、人間の移動の自由を拘束するようになったのである。自動車が増えてくると、その利用法を細部にわたって規制しなくてはならなくなった。とりわけ人口の密集した地域では、車に乗っていては自分の思うままのスピードで行きたいところへ行くことができない。他の車の流れや交通規則で動きが制限されてしまうためだ。車を所有し運転をするには、さまざまな義務がある。運転免許証を手にするための試験を受け、年々更新手続きを行い、月々のローン、車検、保険など数々の支払いをしなくてはならない。さらに悪いことに、車を利用するかどうかは、すでに個人の選択の域を越えてしまった。自動車革命以降、町の様相は様変わりした。大多数の人々は、歩いては仕事にも買い物にも遊びにも行けないような場所に住んでいる。彼らの生活は、車に依存しなくては成り立たないのだ。車が嫌なら、公共の交通機関に頼らなければならない。そしてそれは自分で車を運転するよりも、もっと動きが制限される。歩行者も、もう以前ほどの自由はない。都市では歩行者は絶えず信号で立ち止まらなければならない。信号機があるのは、もともと車のためであるにもかかわらずだ。田舎の高速道路も、傍らを車に走られては不愉快なうえに、危険このうえなく歩けたものではない(この自動車の例で指摘した、次の点に注目されたい。新しいテクノロジーが紹介されるとき、一見それを取り入れるのは個人の自由であるかのように見える。しかしそれはたちまち個人の選択の域を越え、取り入れざるを得なくなる。多くの場合テクノロジーは人々がそれをなくしては生きていけないような形に社会を変革してしまうのである)。

128、テクノロジーの進歩全体がわれわれの自由を絶えず狭めていく一方、新しい科学技術のひとつひとつは、それ自体としては良いものに見える。電気、水道、長距離のコミュニケーション・システムなど、数えきれないほどの現代社会の利器はどうしたってわれわれに害をもたらすとは思えない。電話にしても例外ではない。電話のおかげで生活は便利になった。不便になった点はひとつもない。しかし第56~76項で説明したように、これらの技術の進歩の結果、普通の人間の運命を握るのはもはや当人ではなく、家族や隣人でもなく、政治家や企業重役、名前も知らない官僚や専門技術者となってしまった。これらの人々に、当人の意思など届きようもない。[21]同じことが、未来社会にも繰り返される。遺伝子工学もそうだ。遺伝的疾病をなくすような新しい技術に反対する人々はほとんどいない。それは一見無害であるばかりか、多くの人々を苦しみから解放する。しかしこうした遺伝子工学の進歩は、やがて人間を自然(または神でも何でも)の創造物ではなく、工業製品にしてしまうのである。

129、テクノロジーが社会の原動力としてより強力であるもうひとつの理由は、われわれの社会においてテクノロジーは一方通行で進歩するのみ、別の方向には進みえないということである。何か技術革命があると、人々はすぐにそれに依存するようになり、もはやそれなしでは生きてはいけないようになる。その技術を捨てるのは、新しいよりいっそう進歩した技術が現れたときだけだ。個々の人間だけではなく、システムそのものが新しいテクノロジーに依存するようになる(コンピュータがなくなったら、今日の社会がどうなるかを想像してみてほしい)。したがってシステムはひたすらにテクノロジーの進化を促しているのである。テクノロジーは繰り返し、自由を押し退け浸食する。テクノロジーが後退することはありえない。テクノロジー・システム全体が壊滅する場合を除いては。

130、テクノロジーは急速に発展し、あらゆる方向から自由を脅かす(人口過密化、規則と規定、個人の大組織への依存増幅、プロパガンダおよび他の心理操作、遺伝子工学と監視装置やコンピュータによるプライバシーの侵害など)。自由への脅威のどれかひとつでも取り除こうと思えば、とてつもなく長く困難な社会的闘争を覚悟しなくてはならない。自由を守ろうとする人々は、その敵の多さと攻撃の素早さを知るだけで打ちのめされてしまう。やがて無関心になって抵抗を諦めてしまうのだ。自由への脅威となるものひとつひとつと闘おうとすることは無意味だ。テクノロジー・システム全体を相手にまわして戦うことによってのみ、勝利を望むことができる。そしてそれは改革ではなく、革命なのだ。

131、専門技術者たち(トレーニングを必要とするあらゆる専門職を指している)というものは、概して自分たちの仕事(代理活動)に没頭するあまり、その技術活動と自由のどちらかを選ばなくてはならない場合、技術活動を選ぶことが多い。科学者などはその典型だが、その他にも例はいくらでもある。教育者、人道主義活動家のグループ、自然保護主義者のグループなどはみんな、理想のためにプロパガンダやその他の心理操作テクニックを用いることも厭わない。企業や政府機関は、その目的に有益とあればプライバシーなど無視して個人の私的情報を引き出すことを躊躇しない。治安当局は犯罪容疑者(あとで無実が判明する場合が多い)の持つ憲法規定の権利(訳注:多くの場合、黙秘権を指す)がしばしば治安活動の行使を妨げるとして、これらの容疑者の権利を抑圧するために、合法違法を問わずあらゆる手段を駆使する。教育者たち、政府機関の職員、警察官たちのほとんどは、自由、プライバシー、憲法上の権利を守ることが正しいと信じている。しかしそれが自分の仕事と天秤にかけると、彼らは仕事の方が重要だと感じてしまうのだ。

132、よく言われるように、人間は一般に何か報酬を求めて働くときの方が、罰など嫌なことを避けるために働くときよりもより良く働く。科学者やその他の専門技術者たちは、たいてい仕事を通じて得られる報酬のために働く。しかしテクノロジーによる自由の侵害と闘う者たちは報酬のためではなく嫌な結果を防ぐために活動している。ゆえにこの困難な仕事を達成すべくエネルギーを注ごうとする者は少ない。もしもこのテクノロジーによる自由の侵害を防ぐ砦の土台のひとつでも、改革者たちが達成したという兆しがあれば、多くの人々は安心してもっと人類のためになる道へと目を向けるだろう。だが依然、科学者たちは実験室で研究を続けている。そしてその発展の過程において、テクノロジーはいかなる障害も打ち破りながら個人への影響力を強め、人々をよりシステムに依存するように仕向けているのだ。

133、法律、制度、慣習、倫理、その他いかなる社会的制度をもっても、テクノロジーに対する恒久的な防壁にはならない。すべての社会的制度はやがて消えていくか、変わっていくものであることは、歴史によって証明されている。ところがこの文明のなかでは、テクノロジーの進歩は永続的なものである。もし仮に、なんらかの社会制度を用いて遺伝子工学の利用を抑止したり、人間の自由と尊厳を脅かさないようにできたとしよう。それでもテクノロジーは止まらない。遅かれ早かれそうした社会制度は崩されるであろう。われわれの社会の進む速度をもってしたら、早かれとのみ言うべきかもしれない。遺伝子工学は再びわれわれの自由を侵害し始め、今度はそれを食い止めることができないのだ(テクノロジー文明そのものが崩壊しない限りは)。社会制度を通して、永続的な何かを達成できるかもしれないという幻想は、環境保護法に現在起こっていることを見るだけで霧散する。ほんの数年前まで、環境汚染の少なくとも最悪の事態をいくらかは防ぐ法的処置の砦があったかのように見えた。しかし政界に吹く風の向きで、その砦はボロボロと崩れ去ったのである。

134、前述の理由により、テクノロジーは自由への希求よりも強力な社会原動力であるといえる。しかしながらそう言いきる前に注目すべき重要な点がある。今後数十年の間、産業テクノロジー・システムは厳しい制圧を受けるであろう。それは経済、環境、そしてとりわけ人間の行動(反抗、疎外、敵対心、その他の社会的、心理的障害)に由来する抵抗である。これらの圧力が、システムを崩壊させるか、少なくとも革命が可能なまでにシステムを弱体化させることを、われわれは願っている。そのような革命が起こり成功したときにこそ初めて、自由への希求がテクノロジーよりも強いのだと証明されるのである。

135、第125項で、われわれは強い人間が弱い人間の土地を絶えまない折衝によって没収してしまうという例を引いた。仮にこの強い人間が病気で弱っているとしよう。弱い人間は今こそ相手に土地を返還させるか、相手を殺すことができる。ここで土地だけを取り戻し、相手を生き長らえさせるというのは愚かである。強い人間は力を回復するやいなやたちまち土地を取り上げてしまうであろう。弱い人間に残された唯一の道は、チャンスがあるときに相手の息の根を止めることである。同様に、産業システムが弱体化している間に、われわれはそれを破壊しなくてはならない。もしわれわれが妥協して相手を回復させたなら、システムはやがてわれわれの自由を完全に奪い取るであろう。

より単純な社会問題こそ解決困難である証明

136、テクノロジーから人類の自由を守る方法で社会改革を行うことができると考える人間がいたら、これまでわれわれが対応してきた社会問題を考えてほしい。それはもっと単純でストレートであったにもかかわらず、ほとんどの場合不完全に終わってきた。他の事柄、環境破壊、政治腐敗、麻薬売買、家庭内暴力などにおいても、システムは問題を解決することに失敗し続けてきた。

137、例えばわれわれの環境問題を見てみよう。ここでは価値観の対立がはっきりと見られる。経済的便宜がわれわれの後世の世代のために資源を保持しようという価値[22]と対立している。しかしこの問題においても、われわれが聞かされるのは権力を持つ者の戯れ言である。こうして環境問題は、孫の世代に積み残していく。環境問題を解決しようという企ては、さまざまな党派間の争いと妥協から成り立っている。ときにはある党派が優勢になり、ときには別の党派が力を持つ。こうした争いの数々は、世論の流れとともに変わっていくのだ。これでは合理的なプロセスとはいえないし、環境問題をタイミングよく解決に持っていくことはできない。もし主要な社会問題が完全に「解決」できたとしても、それはけっして合理的で理解可能な計画によるものではない。その解決とは、さまざまなグループが往々にして短期間の自己利益[23]を獲得しようと競合しているなかで、多かれ少なかれ安定した協定が(幸運にも)結ばれるというプロセスを通じて得られたものである。だが実際のところ、われわれが第100~106項で定義した法則をあてはめれば、合理的で長期的な社会計画がいつか必ず成功するとはとても思えない。

138、それゆえ、人類がどれほどベストを尽くしても比較的単純な社会問題さえ解決する能力には限界がある。であるならば、テクノロジーと自由の和解などという、はるかに難しく微妙な問題はどうやって解決が可能なのか?テクノロジーとは、明確な物質的利益をもたらすものである。一方で、自由とは抽象概念、つまりは人によって違うものであり、自由の消失はプロパガンダや飾り立てられた言葉によっていとも簡単に覆われてしまう。

139、この重要な相違に留意するべきである。例えば環境問題が合理的で理解可能な計画により、いつの日か解決されることはありえるだろう。しかしそれはシステム側の長期的利益に基づいて行われることであり、自由を保護するためとか、小規模グループの自治を尊重するためではない。それに反して、人間の行動を最小限にコントロールしようという動きはシステム側の利益となる。[24]そのために現実的な考え方をすれば、システムは環境問題に対して合理的で慎重なアプローチをとるだろうが、そのまったく同じ現実的な考え方が、人々の行動をより厳しく規制するようシステム側に強いるのだ(自由の侵害をごまかすよう、なるべく間接的な方法で)。これはわれわれだけの意見ではない。著名な社会学者たち(例:ジェームス・Q・ウィルソン)が、人々をより効率よく「社会化」する重要性を強調している。

革命は改革よりも容易い

140、ここまでで、現システムがテクノロジーと自由を調和させる方法を通じて改革を起こすことなど不可能であることを理解していただけたことを願う。たったひとつの逃げ道は、産業テクノロジー社会をまるごと放棄することだ。これは革命を意味しているが、必ずしも武装蜂起を必要としているわけではなく、社会の根本的、徹底的な変革を意味している。

141、革命を起こすことは、改革よりももっと難しいと人々は考えがちである。革命は改革よりもより大きな変化をもたらすからだ。だが実際のところ、特定の状況下においては、革命は改革よりもずっと容易である。なぜなら、革命運動は思想に対しての熱意を触発できるからである。改革運動ではそうはいかない。改革運動はたんに特定の社会問題への解決策を提示するだけだ。革命運動はすべての問題を一撃のもとに解決し、まったく新しい社会を作り上げる。それには人々のリスクと犠牲を促すある種の理想を提案する。こうした理由のため、特定のテクノロジーの乱用,例えば遺伝子工学などを防止しようとするよりは、すべての技術体制を放棄する方がずっと簡単なのである。適切な環境下においては、産業テクノロジー・システムに対抗するため、多くの人々が情熱的に身を挙げるであろう。われわれが第133項で述べた通り、改革者たちはテクノロジーによる弊害を避けるために特定の側面だけを制限しようと試みている。しかし革命者たちは、力強い報酬、革命ビジョンの達成を勝ち取るために尽力しているため、改革者よりもずっと熱心で忍耐強くことに当たるのだ。

142、改革というものは、行きすぎた変化がもたらす辛い結果を恐れるあまり、往々にして抑制されてしまう。ひとたび革命的熱狂が社会をとらえると、人々は革命達成のために自ら進んで困難を際限なく引き受けようとする。この点は、フランス革命とロシア革命ではっきりと示されている。このような場合、本当に革命に関わっている人数は少数かもしれないが、充分に活動的であるために社会の中心に成りえるのだ。革命については、このあと第180~205項でも述べる。

人間行動のコントロール

143、文明の誕生以来、組織化された社会というものは、社会機構を機能させるために人間に重圧を与え続けてきた。重圧の種類は、その社会によって大きく異なる。ある重圧は肉体的なもの(飢餓、過度の労働、環境汚染)であり、あるいは心理的なもの(騒音、混雑、社会の要求に沿って行動を鋳型にはめるなど)であった。過去において、人間の特質というのはほとんど不変であり、変化があったとしても一定の範囲内でのことだった。つまり結果として、社会は人々をある限界まで抑圧することしかできなかった。人間の忍耐の限界を越えたとき、反乱、犯罪、堕落、仕事の回避、うつ病などの精神病、死亡率の上昇、出産率の低下などの問題が発生してくる。そのため社会は崩壊していくか、もしくは機能低下していき、ついにはより効率的な社会形態に(急激であるにせよ緩やかであるにせよ、征服や摩擦や革命を通して)とって代わられるのである。[25]

144、このように人間の特質は、過去において社会の発展に限界を与えてきた。人々はある程度まで抑圧されると、限界があった。しかし現代ではそれが変わりつつある。テクノロジーが人間自体そのものを変えつつあるからだ。

145、人々をとてつもなく不幸な状況に隷属させておきながら、その不幸を解消するためにドラッグを与えるような社会を想像してほしい。これはSFではない。こうした状況は、すでにわれわれの社会で起こり始めているのだ。ここ数十年間、うつ病患者は激増しているのは周知の事実だ。これはわれわれが第59~76項で述べているように、パワープロセスの崩壊に起因するものだ。だがたとえわれわれが間違っているにせよ、うつ病の増加は今日の社会に内在するなんらかの制約に起因している。現代社会は人々をうつ病にしている社会的制約を取り除こうとする代わりに、彼らに抗うつ剤を投与する。その結果抗うつ剤は人々の内面を修正して、本来なら耐えられないような制約を受容可能にしているのだ(もちろんわれわれはうつ病が遺伝的なものであることが多いという事実も知っている。ここでは社会的環境が主要な原因となっている場合を述べているのだ)。

146、人の心に作用するドラッグは、現代社会が人間行動をコントロールする方法として開発した一例である。ここでは他の方法も検討する。

147、まず第一に、監視のテクニックがあげられる。今日では多くの店舗などの場所に、監視カメラが設置され、個人に関する膨大な情報がコンピュータによって処理されている。こうして得られた情報は、肉体的な抑圧(すなわち法的執行者)の効率を非常に高めるのに役立つ。[26]それにプロパガンダという方法もあり、この場合マスメディアが効果的な手段を提供する。選挙に勝つため、商品を売るため、世論に影響を与えるため、効果的なテクニックが開発されてきた。娯楽産業は、たとえ膨大な量のセックスと暴力を垂れ流ししているときでさえ、体制のための重要な心理操作道具として働いている。娯楽は現代 人にとって逃避の手段となっている。テレビやビデオに没頭していれば、人はストレスや悩み、フラストレーション、欲求不満などを忘れることができる。未開人の多くは、何もやるべきことがないときに、すっかり満足して数時間座ったままでいる。なぜなら彼らは自分に満足し、周辺は平和であるからだ。ところが現代人は常に何かをやっているか、娯楽に没頭していないと、「退屈」してしまう。つまるところ、そわそわと落ち着かず、苛立ってくるのだ。

148、前述したテクニックよりも、もっと深層部に食い込むものもある。教育はもはや、言いつけを破った子供のお尻を叩いたり、あるいは守ったときに頭を撫でてやるといった程度のものではなくなっている。それは子供の成長をコントロールするための、科学的なテクニックになりつつある。例をあげると、シルバン・ラーニング・センターでは子供の勉強に動機づけをすることが大きな成果をあげている。多くの普通の学校においても、多かれ少なかれ心理学的なテクニックは使用されている。”ペアレンティング”というテクニックが親に教えられているが、これは子供にシステムの基本的な価値を受け入れさせ、システムが望ましいと思う行動をとらせるためのものだ。「精神衛生」プログラム、「調整」技術、精神療法などは、表面上個人に恩恵をもたらすために組まれているように見える。しかし実際には個人がシステムの要求するように行動するように仕向ける方法なのだ(この理論には矛盾がない。システムは、個人が立ち向かうにはあまりにも巨大であり、逃げることさえままならない。ゆえに個人は敗北し、ストレスやフラストレーションに苦しめられる。こうした意味合いにおいて、システムは個人を洗脳して快適な状態に導くという恩寵をもたらすのだ)。通常の場合、児童虐待は許されない。些細な理由、あるいは理由もなしに子供をいたぶることに、正常な人間は悪寒を覚える。しかし多くの心理学者は、虐待の観念を極端に拡大して解釈する。平手打ちをシステムの規律を教え込むために合理的な方法として使う場合、それは虐待といえるのかその答えは、究極的には平手打ちを受けた人間が現システムに沿った行動をとるかどうかにより、決定されるだろう。実際のところ、「虐待」という言葉はシステムに不都合な行動をとるような子供を自ら生み出す養育方法と解釈される傾向にある。ゆえに、「児童虐待」を防止するためのプログラムとは、体制がコントロールできるような方向に人間を仕向けるものなのだ。

149、おそらく人間行動をコントロールするための心理テクニックは、その効率性を増すために今後もリサーチが続けられるであろう。しかしながら、テクノロジーを作り出している社会に人間存在を適合させるためには、心理的なテクニックのみでは不充分である。生物学的な方法も、おそらく使われるであろう。この点に関連して、われわれはすでにドラッグの使用について説明した。神経学もおそらく人間の心を変化させるために新たな道を開くであろう。遺伝子工学においては、すでに「遺伝子セラピー」という形態をとり始めているし、こうした方法が、最終的には人間の体を修正することで精神機能にまで影響を与えるという可能性は否定できない。

150、われわれが第134項で述べたように、産業社会は、苛酷なストレスの時代に入りつつあるように見える。そのストレスのある部分は人間の行動によるもので、また別の部分は経済や環境問題から起因する。そして体制の経済問題、環境問題の多くの部分は人類の行状の結果なのである。疎外感、自信喪失、落ち込み、敵意、反抗、勉強を拒否する子供たち、若者のギャング団、不法ドラッグの使用、強姦、児童虐待その他の犯罪、危険なセックス、十代の妊娠、人口増加、政治腐敗、人種憎悪、エスニック間の対立、イデオロギーの衝突(例えば「避妊賛成派」対「反対派」)、政治的過激主義、テロリズム、サボタージュ、反政府主義グループ、差別グループ。こうしたもののすべてが、システムの存続を脅かしている。システムは持てるすべての方法を使って、人間の行動をコントロールすることを余儀なくされるだろう。

151、われわれが今日目にしている社会の崩壊は、けっして偶然の結果ではない。それはシステムが人々に課してきた社会的制約の結果なのである(われわれはこうした社会的制約が、パワープロセスの崩壊につながる重要性を指摘してきた)。もしシステムが自らの存続を確保するために人間行動を充分にコントロールすることができたなら、それは人類史が新しい段階に入ったことを意味している。以前なら、人間の忍耐の限界が社会発展の限界を設定していたが(第143と144項3照)、一方産業テクノロジー社会は、心理学的あるいは生物学的、またはその両方を駆使して人間存在を修正することにより、限界を取り去ることができるようになるだろう。未来においては、社会システムが人類の必要に応じて調整されることはなくなる。その代わりに、人類はシステムの必要に応じて調整されるのだ。[27]

152、一般的にいえば、人間の行動をコントロールしようという意図はおそらく全体主義的なものでもないし、自由を制限したいという潜在的な欲望のためでもない。[28]人間の心をコントロールしようという新しい試みのひとつひとつは、社会が直面してる問題、アルコール依存の介護、犯罪発生率の抑制、青少年に科学や工学を学ばせる必要、などに対する合理的な対応である。多くの場合、そこには人道的な正当性が見られる。例をあげると、精神治療医がうつ病患者に抗うつ剤を処方するとき、その医師は明らかに善行を行おうとしている。薬の必要な人間にそれを与えないでおくことは、非人道的である。親たちが子供をシルバン・ラーニング・センターに送り、子供を操って熱心に勉強をさせるのは、子供のためを思っているからである。こうした親たちのなかには、仕事を得るために特別なトレーニングを受けたり、子供が洗脳されてコンピュータおたくになる必要などなければよいのにと願う者もいるかもしれない。しかし彼らに何ができようか?彼らは社会を変えることはできないし、子供たちは何か技術がなければ失業者になってしまう。そこで彼らは子供たちをシルバンに送り込むのだ。

153、ゆえに、人間の行動に対するコントロールすべてが体制側が計算ずくで導入したわけではなく、社会進化のプロセスにおいて発生してきたものといえる(急激な進化ではあるが)。このプロセスに抵抗するのは不可能である。なぜなら、ひとつひとつの進歩をとってみればそれらは恩恵をもたらすものだからだ。進歩の過程に害が含まれていても、そのために進歩を怠れば、よりひどい結果になることは目に見えている(第127項3照)。たとえばプロパガンダでさえ、児童虐待や人種差別を思い止まらせるといった、良い目的のためにも多く使用されている。[14]性教育は明らかに有用ではあるが、その目的は性教育の影響を家族から公立の学校の手に渡すことである。

154、子供が成長して犯罪に走る傾向を増長させる物質が発見され、遺伝子セラピーがこれを治療するという可能性を想像してみよう。[29]もちろんこうした特性を持つ子供の親は、子供に治療を受けさせるだろう。そうしなければ、子供の一生はたぶん無残なものとなるであろう、ゆえに治療をしないのは非人間的である。だが多くの、あるいはほとんどの未開社会は、われわれの社会に比べて非常に低い犯罪発生率を示している。われわれが持っているような子供を養育するための高度な方法論や、ひどい罰則システムなどを行使していないにもかかわらずである。現代人が未開人に比べて外人的に略奪的な傾向を持っているとは考えにくいため、われわれの社会における高い犯罪発生率は、現代社会が人間に課したプレッシャーに多くの人々が適応できないためであると考えて間違いないだろう。それゆえに、犯罪を起こしそうな潜在的特癖を取り除くのは、システムの要求に沿うように人間を再処理するということの、少なくとも一部のやり方である。

155、われわれの社会は、「病気」というものをシステムにとって不都合な行動や思想としてとらえる傾向にあるこれは実に合理的だ。なぜなら、個人がシステムにフィットできていないでいるときに、その個人は苦痛を覚え、システムは問題を抱え込む、それゆえにシステムに適応できるように個人を調整することは、病気からの回復とみなされ、つまり善行となってしまうのだ。

156、テクノロジーによって開発された新しい道具が、当初使うも使わないも個人の自由であったとしても。それがずっと選択自由のままであるとは限らない。これは第127項でも指摘をしている点だ。なぜなら、新しいテクノロジーは社会そのものを変えていく傾向にあるため、個人がそのテクノロジーを使わずに生きていくことは困難か、あるいは不可能になってしまうからだ。これは人間行動のテクノロジーにも応用されている。現在の世界においては、ほとんどの子供たちが熱心に勉強することを求められている。そのため親たちは否応なく子供たちにそうしたプログラムを強いる。そうでなければ自分の子供たちは他人に比べて無学な人間になってしまい、それゆえ就職ができなくなってしまうからだ。あるいは生物学的に画期的な発見がされたと想定しよう。その発見は、生物学的な処置をもって、副作用なしに多くの人間が社会の中で苦しんでいる精神的ストレスを減少させることが可能だとしよう。もしも大勢の人がこの治療を受けるとすれば、社会における一般的なストレス・レベルは低下するだろう。それにより、体制側はストレスを生み出すプレッシャーを増加させることが可能になる。事実こうしたことは、われわれの社会におけるもっとも重要な心理的道具を用いてすでに行われ、人々のストレスを減少、少なくとも一時的に逃避させている。その道具の名前は、大衆娯楽である(第147項3照)。大衆娯楽を享受するか否かは、われわれにとって選択自由である。いかなる法律も、われわれにテレビを見ろ、ラジオを聴け、雑誌を読めとは強制していない。だが大衆娯楽はストレス解消か逃避の手段になっており、ほとんどの人間がそれに依存している。誰もがテレビを見ている。ごく少数の人間は、テレビを見る習慣を絶ってしまっているかもしれない。だが今日、なんらかの大衆娯楽なしに生活していける人間など、ほとんどいないであろう(ただし人類の歴史ではごく最近まで人々の大多数は地元のコミュニティー用に催された娯楽だけで非常に快適に生きてきた)。娯楽産業をなくしては、システム側は大きなストレスを生み出すプレッシャーをわれわれに課していくことはできないであろう。

157、産業社会は生き延びることができたと仮定しよう。そこでは最終的にテクノロジーがなんらかの方法で人間の行動を完璧にコントロールしているだろう。人間の思考や行動は、多くの部分が生物学的な基盤の上に成り立っている。生物学者が実験してみせたように、脳の適当な部分を刺激すると、空腹、喜び、怒り、恐れのような感情を人工的に起こしたり、失わせたりすることができるのだ。脳のある部分を破壊すれば記憶を失わせることもできるし、あるいは電気的な刺激によって記憶を浮上させることもできる。ドラッグにより幻覚症状を引き起こして気分を変えることもできる。魂と呼ばれる非物質的なものは存在するのかもしれないし、しないかもしれない。だが仮に魂が存在すれば、人間の行動においては、明らかに生物学的なメカニズムの方が勝っているといえる。さもなければ、研究者たちはドラッグや電気刺激を用いていとも簡単に人間の行動を操作することなどできないだろう。

158、体制側の指示に従わせるため、すべての人々の頭の中に電極を差し込むというやり方は、現実的ではない。だが人間の思考や感情といったものは、生物学的な干渉に対して非常にオープンにできている。そのため、人間の行動をコントロールすることは、大部分が技術的な問題なのだ。神経、ホルモン、分子結合の問題。それらは科学的にアクセスできる問題である。われわれの社会は、今までにどれだけの技術的な問題を解決してきたことか。これを考えると、人間の行動をコントロールするため、技術的に大きな進歩が達成されることなどほとんど確実といえる。

159、人間の行動をコントロールするようなテクノロジーの導入に対して、大衆は抵抗するだろうか?そうしたテクノロジーが一度に大量に導入されようとしたなら、確実に抵抗は起こるだろう。だが、テクノロジーは一歩一歩の小さな前進として少しずつ長期的に導入されるため、大衆が合理的にまた効果的に抵抗することなどまずないであろう(第127、132、153項3照)。

160、こういった話をSFととらえる人々もいるかもしれない。ならばわれわれは昨日のSFが今日の現実になっている事実を指摘する。産業革命は、急進的に人々の生活と環境を変えてきた。そして今後テクノロジーが人間の体と心に働きかけて、環境や生き方同様、人間自身を根本から変えていくであろう。

岐路に立つ人類

161、だがわれわれは論旨を先に走りすぎた。研究室の中で、人間の行動を操作する心理学的、生物学的なテクニックを開発することはひとつの問題であり、そうしたテクニックを統合して社会の中で実際に機能させることはまた別の問題である。後者の方がより難しいといえるだろう。例をあげてみよう。教育心理学上のテクニックは、それが開発された「実験校」では、非常によく機能するが、通常の学校において効果的に適応するというわけではない。今学校がどうなっているか、われわれは全員知っている。教師たちは生徒からナイフや銃を取り上げるのに忙しい。そして生徒をコンピュータおたくにすることで、最新のテクニックに従属させようとしている。つまり人間行動に関するテクニカルな進歩がなされているにもかかわらず、今日のシステムは人間の行動をコントロールすることに完全に成功はしていないのだ。体制によって非常にうまくコントロールされている人間がいるとすれば、それはおそらく「ブルジョア」と呼ばれているタイプの人々である。しかし、システムに抵抗してさまざまな方法を用いる人々は増えている。福祉横領者たち、青年ギャング団、新興宗教信者、悪魔崇拝者、ナチス信奉者、過激な環境保護主義者、民兵組織など。

162、システムは自らの存続に脅威となる問題を排除するため、現在のところ絶望的な努力を続けている。その問題のうち、もっとも重要なのは、人間の行動である。もしも充分に人間行動をコントロールすることができたなら、システムは存続するだろう。さもなければ、システムは崩壊するだろう。われわれはこの問題は今後40年から百年の間に解決されるだろうと考える。

163、システムが今後数十年の危機を乗り越えて生き延びたと仮定しよう。その時点においては、システムと衝突するような問題、特に人類の「社会化」という問題は解決されているか、もしくはコントロール下に置かれていなければならない。その意味は、システムに脅威ともならないように、人間を充分に従順にすることである。これが達成されれば、もうテクノロジーの発展に障害はない。それはおそらく人間だけではなく、この世界のすべての生物を完全にコントロールするであろう。システムは中央集権的な組織になっているかもしれないし、あるいはいくつかの組織が協力と競争の関係を保つかもしれない。ちょうど今日の政府や会社、それに巨大な組織が互いに協力と競争の関係を持っているようなものだ。人間の自由はほとんど失われてしまっているだろう。なぜなら巨大な組織は、人間を操作する心理的、生物学的なスーパーテクノロジーで武装しているというのに、対抗する個人は無力であるからだ。本当の権力を握るのは、ごく一部となる。そしてそれら少数の人間でさえ、規制されるのだ。ちょうど今日の政治家や大企業の重役が、非常に狭い、特定の範囲でしか権力を保てないのと同様である。

164、今後数十年の危機をシステムが乗り越えたとしよう。もはや人間や自然をコントロールすることが、システムの存続に必要ではなくなった。ではシステムはそれ以上に人間や自然をコントロールするために技術を開発しなくなるだろうか。そうはいかない。まったく逆に、ひとたび危機が過ぎ去ったら、システムは人間と自然に対するコントロールをもっと急速に進めるだろう。なぜなら、今現在コントロールを妨害している要素は、その時点ではなくなっているからだ。コントロールが拡大されていくのは、システムの存続のためだけではない。第89~90項で述べたように、科学者や技術者たちは代理活動を続けている。つまり彼らは技術的な問題を解明することによって、満足感を覚える。彼らの熱意は続くだろう。そして彼らにとってもっとも興味深く、意欲をかきたてられる問題は、人間の心と体を理解して、その発育に干渉するということである。もちろん「人類の利益」のためだ。

165、だが、また別の局面を想定しよう。今後数十年間にシステムにとってのストレスが過重になった場合である。もしもシステムが崩壊すれば、カオスが訪れる。これまで人類が歴史に刻んできたような、「トラブルの時代」である。過去の歴史の節目節目に、そうした期間が現れた。トラブルの時代に何が発生するかを予測するのは不可能だ。いずれにせよ、人類は新しいチャンスを与えられることになる。もっとも大きい危険は、社会の崩壊後、数年のうちに産業社会が復活することである。工場を再建したくてしかたない連中(特に権力欲の強いタイプ)が、必ず大勢現れるだろう。

166、それゆえ産業システムによって人類がおとしめられている奴隷状態を嫌う人々は、二つの責務に直面している。第一はわれわれは体制内部における社会的ストレスを高めるために行動しなくてはならない。これにより体制は弱体化するか、もしくは崩壊し、革命が可能になってくる。第二に、テクノロジーと産業社会に対抗するイデオロギーを創作し、システムが弱体化した時点でそれを喧伝する必要がある。そうしたイデオロギーは、産業社 会が崩壊したのち、システムが再構成されることができないように、破壊を完全なものとする手助けをする。工場は破壊され、技術者は焼かれるべきなのだ。

人類の苦悩

167、純粋な革命の行動のみで産業システムが崩壊することはまずないであろう。システム自身の内部にある問題が深刻にならない限り、革命的な攻撃が成功するとは考えにくい。そのためもしシステムが壊れるならば、自己破壊によるものか、もしくは自己破壊プラス革命の影響というプロセスを通じて起こるだろう。仮にシステムの崩壊が突如として起こったとすれば、多くの人間が死ぬことになる。なぜなら世界の人口は爆発寸前状態にあり、高度なテクノロジーなしでは、すべての人々に食料を供給することなど不可能だからだ。では社会がゆっくりと崩壊し、死亡率の上昇と出産率の低下以上の人口減少が起こり、それと歩調を合わせられる程度のスピードで崩壊が進行したとすればどうか。それでも非産業社会への移行はカオス的で、苦しみに満ちたものとなるだろう。テクノロジーが命令された通りに徐々に消えると考えるのは、あまりにも無邪気すぎる。特にテクノロジー崇拝者たちが、ことあるごとに頑迷に抵抗をするだろう。だとすれば、システム崩壊のために行動するのは気違い沙汰なのか?その答えはわからない。第一段階においては、システム自体が深刻な問題を抱えて、自己崩壊の兆しを見せない限り、革命を成功させるのは難しいだろう。そしてシステムが巨大になればなるほど、崩壊の結果として起こる災厄も大きくなる。よって崩壊の触発を促す革命家は、災厄の広がりを減少させているのかもしれない。

168、第2段階においては、人々は自由と尊厳の喪失と、苦しみや死というものを天秤にかけなくてはならない。われわれの多くにとっては、長く生きることや肉体的苦痛を回避することよりも、自由や尊厳といったものの方がはるかに重要である。加えてわれわれはいつかは死ななければならない。ならば目的のない空虚な人生で長生きするか、生存のため、大義のために闘って死ぬ方がましである。

169、第3段階において、システムが崩壊する場合に生ずる苦痛と、システムが存続したときに発生する苦痛とではどちらがより大きいだろうか。これについては確かなことはいえない。システムはすでに膨大な苦しみを世界中に引き起こしている。何百年もの間、人々の間に満足のいく関係をもたらしてきた古代社会は、産業社会との接触で粉々に粉砕され、その結果経済問題、環境問題、社会問題、そして心理的な問題が浮上してきた。産業社会の侵略で引き起こされた結果のひとつは、伝統的な人口調整機能の麻痺である。つまりは、人口爆発である。そして裕福とされる西側諸国においては、心理的な苦しみが広がっている(第44、45項3照)。オゾン層の破壊や地球の温暖化といった環境問題がどういった結果をもたらすのか、誰にもわからない。そして核兵器の撤退に見られるように、新しいテクノロジーを独裁者や無責任な途上国の手から遠ざけておくことなどできない。イラクや北朝鮮が、遺伝子工学を用いて何を始めるか、あなたは予測できるだろうか?

170、テクノロジー崇拝者たちは言うだろう。「科学はそんなことすべて解決するさ!われわれは飢饉を克服して、心理学上の苦しみを取り除いて、みんなを健康的で幸福にするのさ」と、200年前にもまったく同じことが言われた。産業革命は貧困を解消し、すべての人間を幸福にする。実際の結果は、まったく異なった。テクノロジー崇拝者たちは自分を欺いているのか、愚かなのか、社会問題を理解しようとしない(あるいは無視している)。社会に大きな変化が導入されれば、それがたとえ恩恵をもたらすように見えてもまったく別の結果を誘発するのだ(第103項3照)。結果は、社会の混乱である。それゆえ、テクノロジー崇拝者たちが貧困や病気を根絶し、従順で幸福な人間を作り出そうとする試みは、今よりもひどい社会混乱を引き起こそうとしているのと同じだといえなくもない。例えば、彼らは遺伝子工学を利用した作物を作ることで飢餓を解消できるという。だが同時にそれは、人口を際限なく増加させることにもつながる。混雑した場所では、ストレスや攻撃性が高まることはよく知られている。これは予測不可能な問題の一例でしかない。過去の歴史が示すように、テクノロジーの進歩は新たな社会問題につながり、古い問題が解決されるよりも速く新たな問題を浮上させるのだ。それゆえテクノ崇拝者たちの主張する素晴らしい社会が実現するとすれば、長期間にわたって実験と失敗が繰り返される。その一方では巨大な苦しみが人々を襲っているだろう。そのため産業社会が存続した場合の苦しみと、崩壊した場合の苦しみのどちらがよりひどいものとなるかは、予測がつかない、テクノロジーは人類を身動きのとれない状態に固定し、簡単に逃げられなくしてしまったのだ。

未来社会

171産業社会があと何世代も生き残り、欠点は修正されて良い方向に向かうようになったと仮定しよう。システムがうまくいったとすれば、それはどんなシステムだろうか?われわれはいくつかの可能性を考察する。

172まず初めにコンピュータ科学者が人間にとって代わるだけの知性を備えたコンピュータを開発したとしょう。その場合は、すべての仕事は高度に整備された機械によって行われ、人間の労力は必要ではなくなるであろう。次のどちらかが起こる可能性がある。機械は人間の監視なしに独自の決断を下す。あるいは管理人としての人間の地位が残る

173もし機械にすべて自分で決断を下すことが許されるならば、そのような機械がどのようにふるまうか推測することは不可能なので、われわれは結果に関するどんな推測もすることができない。人類の運命が機械のなすままであるとわれわれは指摘するだけである。人類が機械にその権力のすべて譲り渡すほど愚かではないという意見があるかもしれない。しかしわれわれは人類が自発的に機械に権力を渡すとも、また機械が故意に権力を握とするともわれわれは主張していない。人類が機械の決定に従うしか選択がない位置に自らをおとしめる可能性を指摘しているのである。直面する社会問題はますます複雑になり、機械はますます知的になるとき、人々は機械が決定した結果が人間の決定した結果よりも良いという理由から、どんどん機械に依存するようになる。これの行き着く先は、人間の知性が決定できないほど複雑に入り組んだシステム社会である。この段階にくれば、機械が支配し、それに依存しきっている人々は機械のスイッチを切ることが自殺行為につながるために、実行できない

174、もうひとつは、人間が機械を支配続けるという可能性である。その場合は、平均的な市民は車やパソコンなどのある種の機械を自分でコントロールし続けるだろう。しかし大きな単位のシステム機械の管理は、今日のわれわれの社会のように一部のエリートたちの手に渡るであろう。しかし現代社会とは2つの違いがある。テクノロジーの発展により、エリートの大衆に対する管理はさらに進んでいるだろう。そして人間の労働力はもはや必要ないため、一般大衆はシステムにとって、役に立たない重荷である。もしエリートが無情であれば、一般大衆を絶滅させるかもしれない。もし彼らが思いやりがあるならば、彼らはプロパガンダや他の心理学上、生物学上のテクニックを使って大衆が絶滅するまで出産率を低め、エリートのみの世界を作り上げるかもしれない。あるいはもしエリートが思いやりがあるリベラリストであれば、彼らは他の人類たちにとって、良い羊飼いの役割をする決心をするかもしれない。人々の肉体的なニーズは供給され、すべての子供は精神衛生上健康に育てられ、人々を忙しくしておくための良い趣味を与え、不満分子が生じたならば、彼の「問題」を解決するための「治療」を施す。もちろんこの生活は目的がないため、人々から生物学的、あるいは心理学的にパワープロセスへの渇望を取り除かなくてはならない。あるいは、彼らを無害な趣味に熱中させて、彼らの欲求を「昇華させる」。これらの操作された人々は、このような社会で満足するかもしれないが、彼らは絶対に自由とはいえない。これは人類が家畜化された姿である。

175、では今度はコンピュータ科学者が人工知能の開発に失敗して、人類の労働は必要なままだったと仮定しよう。この場合でも、機械はどんどん単純作業をとって代わるようになるだろうから、下級労働者は失業していく(この問題はすでに起こっている。知能的あるいは心理的な理由から、現在の社会システムの中で有能であるためのトレーニングレベルを習得することができない人々は、仕事を探すのが非常に困難か、あるいは不可能である)。現在職がある人々も、絶えず要求されることが増えていく。彼らは巨大な生物の細胞のひとつになっていくために、より多くのトレーニング、より多くの能力、そして信頼度、従順さと安定度などが要求されていくのだ。職業はますます専門化していき、現実社会との接触はほんの小さな部分だけになっていく。社会システムは人々の欲求を「昇華させ」、従順に仕事に従事するよう管理するために心理的、あるいは生物学的なあらゆる手段を用いてくるだろう。このように人々が従順でなければならない社会には、試験が必要になるかもしれない。社会はこれには競争が有効な手段であるとするかもしれず、システムに沿った方向に人々が流れていくような競争社会を設定するかもしれない。未来社会では特権と権力のために終わりなき競争が繰り広げられるかもしれない。しかし実際にトップにたどり着くのは、ごくわずかな人々だけだ(第163項3照)。人々は、他人が権力にありつく機会を踏みにじり、大勢の人々を押し退けることによってのみ自分の権力の必要性を満足させられる社会なのだ。

176、これまで話し合ってきたシナリオのいくつかの要素を合わせた未来の可能性も想像できる。例えば、機械が現在の重要な仕事のほとんどを引き継ぐことはありえるかもしれない。しかし人類は、その代わりに比較的とるに足りない仕事で時間をつぶすことはできる。産業の発展によって、職場の需要が増えるというのはよく提案されたことである。そこで人々はお互いの靴を磨き合い、お互いにタクシーを運転して動きまわり、お互いのための手仕事をして、互いの食事を給仕し合う。これは人類が到達するのにはあまりにもくだらない結末である。このような生活で満足する人々が多くいるとはとうてい思えない。人々は、生物学的あるいは心理的にこのような社会に順応しない限り、他の危険なはけ口(ドラッグ、犯罪、新興宗教、差別主義団体など)に走るだろう。

177、上記のシナリオが可能性のすべてでないことはいうまでもない。これはたんに一番可能性のありそうなことがらをまとめただけである。しかしこれ以上にありそうなシナリオを想像することはできない。この産業テクノロジーのシステムがこの先40年から100年ぐらい生き残る可能性は、圧倒的に強い。そしてその頃までには、次のような一般的な特徴を兼ね備えていることだろう。ある個人(少なくともシステムに取り入った権力を持っているブルジョア>タイプ)、はこれまで以上に大きな組織に依存しており、肉体的にも精神的にもさらに「社会化」していくであろう。残されたわずかな自然は科学者の研究材料として管理され、そのためすでに野生とはいえなくなるであろう。そして数世紀もたてば、今日われわれが知っている形の人類も、生物も存在しなくなるであろう。なぜならばいったん遺伝子の管理が行われるようになれば、それは際限なく変化するまで続けられるからだ。

178、どのような場合でもテクノロジーは、自然が与え、人間が適応してきた環境とは、精神的にも物質的にも著しく異なる環境を作り上げているという事実は間違いない。人類がこれに人工的に適合していかなければ、長い時間と痛みを伴う自然淘汰が待っている。前者は後者よりもはるかに現実的である。

179、結果を受け入れて、この悪臭にまみれた社会システムを放棄するのが最良である。

戦略

180、テクノロジー崇拝者はまったく無謀な方法でわれわれを未知の領域へと連れ出している。このテクノロジーの進歩が何をやっているのか理解している人々も、これが必然的なものであるとして受動的な態度をとっている。しかしわれわれFCは、それが必然的であるとは思わない。これが中断可能であると思っており、その理由と方法をこれから述べる。

181、第166項で述べたように、われわれの現在の2つの主要な仕事は、産業社会の社会的ストレスと不安を促して、テクノロジーと産業システムに反対するイデオロギーを発達させ、広めることである。システムに対するストレスが充分に溜まり、不安定になるとき、テクノロジーに対する革命は可能かもしれない。パターンは、フランスとロシアの革命に似ている。フランスとロシアの社会では、それぞれの革命より何世代か前からストレスと弱さの兆候を示していた。その間、新しいイデオロギーが発展して、まったく新しい世界観を創造した、ロシアの場合、革命家は古い秩序を崩すために活発に努力していた。そして古いシステムに大きなストレスが加わったとき(フランスでは財政危機、そしてロシアでは軍事の敗北)、革命が起こった。われわれが提案するのは、これに似た筋書きのようなものである。

182、フランスとロシア革命が失敗であったかどうかというのは、意見が分かれるところだろう。ほとんどの革命には2つの目的がある。ひとつは社会の古い形式を破壊することで、もうひとつは革命家が新しい形式の社会を。創出することである。幸いにもフランスもロシアも、夢見ていたような新しい社会を作ることには失敗したが、現存の形式を破壊する方は、よくやった。そしてわれわれの目的は、現存の社会を破壊することのみである。

183、しかし熱狂的なサポートを得るためには、イデオロギーには否定的なものだけではなく、明確な理想もなくてはならない。対抗するものと、指示するものが必要なのだ。われわれが提案する明確な理想は、自然である。これは野生の自然のことだ。この地球の自然作用は、人間の干渉と管理から独立している。そしてこの野生の中には、人間の本来の人間性をも含む。本来の人間とは、管理社会の規制に縛られた存在ではなく、チャンスと自由意思、そして神(個々の宗教、あるいは哲学的意見によるが)の産物なのである。

184、自然はいくつかの理由においてテクノロジーと正反対の理想となる。自然は(システムの権力外にあるそれは)テクノロジー(システムの権力を無期限に拡大させようと試みている)の反対である。自然が美しいことは誰でも同意するであろう。確かに自然には人々に訴える力がある。過激派の環境保護活動家は、すでに自然を賞賛しテクノロジーを否定するイデオロギーを持っている。[30]「自然のために、理想上のユートピアなどの社会的秩序を設置する必要はない。自然は自分たちで維持できる。それは人間社会のずっと以前から存在している偶発的な創造物であり、長い間人間社会は過度のダメージを与えることなく自然と共存してきた。人間社会が自然に与える破壊がひどくなったのは、産業革命以降のことである。自然を回復するためには、特別な社会システムを創造する必要はなく、たんに産業社会を壊滅させればよいのだ。もっともこれですべての問題は解決しない。産業社会は、すでに自然にかなりのダメージを与えてきた。この傷跡を治癒するためには非常に長い時間がかかる。産業化される以前の社会も、自然に重要な位置を与えることはできた。それでも、産業社会を壊滅させることはかなりの結果が期待できる。自然が背負うもっとも重いプレッシャーを取り除くことにより、傷はすぐに快方に向かう。組織化された社会の自然に対する(本来の人間性も含む)介入を取り除くのだ。産業社会の壊滅後、どのような社会がやってこようともほとんどの人々は自然と密着して生活をするであろう。高度に発展したテクノロジーがなければ、それ以外に生活していく方法はないのだ。生計を立てていくのには、農民か牧夫、漁師か狩人にならなくてはならない。そして一般論をいえば、先進技術と急速なコミュニケーション手段のない社会では、政府や大きな組織の管理を制限するために、地元のコミュニティーによる自治が増えていくであろう。

185、そして産業社会の壊滅による弊害は…食べてしまったケーキは、とっておくことができない。何かを得るには、何かを犠牲にしなくてはならないのだ。

186、大多数の人は、精神的な葛藤を嫌う傾向にある。そのために、彼らは難しい社会問題についての真面目な思考を避けようとする。そしてそのような問題に、いつも白か黒かという単純な説明を添えて提出されることを願っているのだ。これは全面的に正しく、これは全面的に間違っている、というように。それゆえに革命のイデオロギーは、2つのレベルに分けて進展させるべきである。

187、より知的なレベルでのイデオロギーは、思慮深く、そして論理的で知的な人々に向けて演説するべきである。目的は産業システムに反対する人々を論理的に思慮深く説得し、システムを取り除くことに伴う弊害も納得してもらうことである。彼らは他の人々に影響を与える力を持つので、このタイプの人々を引きつけることはとりわけ重要である。そしてこれらの人々は、できる限り論理的に説得するべきである。事実をゆがめたり、不道徳な言葉を使うべきではない。感情に訴えることも否定はしないが、イデオロギーの知的な部分を破壊しない程度に抑えておくべきである。

188、2番目のレベルでイデオロギーは、あまり頭を使わない大衆にテクノロジー対自然の対立を簡単な言葉で植えつけるべきである。もっともこのレベルでも、イデオロギーは思慮深く論理的なタイプの人々を遠ざけるほど、安っぽい、不道徳で非論理的な言葉で表現されるべきではない。安っぽく、不道徳なプロパガンダは短期間の功績はあげられるが、気まぐれな暴徒を多数引き入れるよりも、少数でも忠実で利口な人々を味方にすることの方が長期的には有利である。しかしながらシステムが崩壊のポイントに近づいているとき、われわれのために動的な夕イプのプロパガンダは必要かもしれない。古い世界観が終わりになるときに、イデオロギー間の争いでどちらが支配をするのか決定されるのだ。

189、その最後の争いより前に、革命家は自分たちの人間が多数派であることを期待してはいけない。大衆に自分が何を欲しているのか明確な考えがあることはほとんどなく、歴史は常に活動的で意志の闘い少数派によって動かされてきたのだ。最終的な革命のときが近づくまで[3]革命家の仕事は大衆の薄っぺらな支持を得ることではなく、少数の信頼できる中核グループを築くことである。そして大衆には新しいイデオロギーの存在を頻繁に訴えかけることで充分である。もっとも中核グループを弱めることなしに、一般大衆の支持を得ることができればそれにこしたことはない。

190、どんな種類の社会的な対立も、システムを揺れ動かすのに一役かっている。しかしどのような対立を支持するかということには、気を配るべきである。この争いの境界線は、産業社会の大衆とエリート(政治家、科学者、企業幹部、官僚など)の間に引かれるべきで、革命家と大衆の間に引かれてはならない。例えば、消費に関して大衆を責めるというのは革命家にとって悪い戦略である。その代わりにアメリカ人は広告マーケティング業界の犠牲者であり、必要でもないガラクタを買わせられることはあまりにもお粗末な自由の代償であるというものだ。どちらのアプローチも、事実とは一致する。一般大衆を操っている広告産業をとがめるか、操られている一般大衆をとがめるかという違いだけだ。戦略的には、一般大衆をとがめることを避けるべきである。

191、社会対立を支持する場合は権力を保持するエリートと(テクノロジーを行使する)、一般大衆(テクノロジーによって影響される)の間以外のものであれば、どんなものでもよく思案するべきである。これ以外の対立は、重要な対立(パワーエリートと普通の人々、テクノロジーと自然)から気をそらせることになりがちで、さらにどちら側も相手を打ち負かすためにテクノロジーを行使している対立の場合は、どちら側もテクノロジーを支持していることになる。これは特に国家間で見られる。またときには国内の民族紛争にも見られる。例えばアメリカの黒人の指導者たちは、より多くのアフリカ系アメリカ人をパワーエリートの地位に置くことで権力を得ようと切望している。彼らはより多くの黒人の政府役人、科学者、企業重役などがほしいのだ。そうすることにより、彼らはアメリカのアフリカ文化が産業システムに吸収される手助けをしている。したがって一般的にいって、支持をするのはパワーエリート対普通の人々、テクノロジー対自然の対立のみにするべきである。

192、しかし民族の対立を縮小させるのは、好戦的な少数民族活動家を通してではない(第21、29項3照)。革命家は少数派民族は確かに不利な立場に置かれているけれど、それは環境に原因があることを訴えるべきである。われわれの本当の敵は産業テクノロジー・システムであり、それに比べると民族の違いなど些細なことであるのだ。

193、われわれが考えている革命は、必ず政府に対する武力闘争を指しているわけではない。暴力を必要とするかもしれないし、しないかもしれない。これは政治的な革命ではない。その焦点は、政治ではなくテクノロジーと経済である。[32]

194、産業システムが危険なところまでストレスを溜め込み、ほとんどの人々の目に失敗であったことが明らかになるまで、革命家は政治の力に頼ることは避けるべきである。たとえば「緑の環境保護」の政党がアメリカ合衆国義会で多数派になったとする。彼らは自分たちのイデオロギーが薄まっていくことを避けるために、経済成長ではなく経済縮小を目指さなくてはならない。一般大衆には、これは破滅的な行為に映るだろう。失業率の増加、必需物資の不足など。たとえ悪影響が並外れて上手な管理によって避けられることができたとしても、人々は彼らが中毒になっていた贅沢を諦めざるを得ないだろう。不満の声が大きくなり、「緑」の政党は議会から追放され、革命家はその後退に苦しむことになる。このような理由から、革命家は産業システムそのものが崩壊に兆しを明らかにするまで、政治的な方面からの革命に期待をするべきではない。この革命は、たぶん部外者によって、上層部ではなく下層部から始まるだろう。

195、革命は国際的でなければならない。それは国単位で実行できることではない。例えばアメリカ合衆国は技術の進歩や経済の成長を抑えるべきであるという提案がなされたとしたら、人々はヒステリックになって、われわれのテクノロジーが日本人に遅れてしまうと叫び始めるだろう。大変だ!もしも日本人がわれわれよりも車の売上げを伸ばしたら、地球は軌道からはずれてしまう(ナショナリズムは、テクノロジーの大きな原動力である)。さらにいうと、民主主義国家のテクノロジーが、中国やベトナム、北朝鮮などの悪どく独裁的な国家に遅れをとるようなことになれば、独裁者が世界を支配するようになるかもしれない。これが産業システムの破壊は、世界単位で行われるべきであることの理由なのだ。もっとも産業システムが世界中で打ち壊されたとしても、その時期がうまく合うかどうか、そしてそれが独裁者支配につながらないという保証はどこにもない。これは試す価値のあるリスクである。なぜなら「民主主義」產業システムと、独裁者の産業システムの違いは、産業システムと産業のない社会に比べれば些細なものだからだ。[33]あるいは独裁者による産業システムは、効率が悪いので崩壊も早いかもしれない。そのいい例がキューバだ。

196、革命家は世界経済全体を統一する傾向を利用できるかもしれない。目先のことを考えると、北米自由貿易協定やGATTのような自由な貿易協定は、環境に有害であろう。しかし結局これらは国家の間での経済相互依存を促進するため、長期的に見れば有利に働くかもしれない。産業システムが世界単位になっていれば、それを破壊するときもひとつの先進工業国を破壊させることにより、世界経済全体を崩壊させることが可能になる。

197、ある人々は、現代人が自然を管理する力を持ちすぎており、人類はもっと受動的な立場になるべきだと主張する。かなり好意的に見ても、これらの人々の主張ははっきりしない。なぜなら彼らは大規模な組織の力と、個人あるいは小規模グループの力をはっきりと分別していないからである。人々は力を必要としているのだから、無力な受動性に賛成の論を張ることは、誤りである。現代人を共同エンティティ(産業システム)みれば、自然に対して持っている巨大な権限をわれわれFCは悪とみなす。しかし、現代の個人および個人の小規模グループの持つ力は、原始人が持っていた力よりもはるかに少ない。一般的にいうならば、自然に対する「現代人の巨大な権限というのは、個人や小規模グループではなく、大規模な組織によって発揮されているのである。個人レベルでの力が行使されるとしても、システム管理のもとで小規模でのみ行われる(ライセンス取得が必要であり、ライセンスには規則と規制がついてくる)。個人は、システムが与えてくれるだけの力しか持てない、自然に対する彼の個人的権限は、ごくわずかである。

198、原始社会では、個人も小規模グループも自然に対するかなりの権限を持っていた。あるいは、自然の中での権限というべきかもしれない。原始人は食物が必要になれば、彼は食用になる根の見つけ方も、獲物の見つけ方も、そして手製の武器を使ってそれを獲る方法も知っていた。さらに暑さ、寒さ、雨、猛獣などから身を守る術も知っていた。しかし原始人が自然に対して大規模なダメージを与えてこなかったのは、原始社会の共同権限が、産業社会の共同権限とは比べものにならなかったためである。

199、無力で受動的になるべきであると主張するよりも、産業システムの力を、破壊を主張するべきである。これが個人と小規模グループの力の増大に貢献するのだ。

200、産業システムが徹底的に破壊されるまで、革命家はそれだけを目的にするべきだ。他の目的を持つことは、この主要な目的から注意とエネルギーを奪ってしまう。より重要なことは、もしも革命家が他の目的を持つと、その達成のためにテクノロジーを行使してしまう恐れがあることだ。その誘惑に負けてしまえば、テクノロジーの罠にはまってしまうことになる。現在のテクノロジーは統一された組織形式になっているために、あるテクノロジーだけを残そうとしても他のテクノロジーがほとんど付随してきてしまう。

201、例えば革命家が「社会的な正義」を目的としたとする。人間の本性が現状通りである限り、この社会的な正義は自然に起こらないから、強制的に施行されなくてはならない。施行するためには、革命家は、中央組織とそのコントロールを保持しなければならない。それのために彼らは急速な長距離の輸送とコミュニケーションを必要とする。そのために、テクノロジーは、輸送とコミュニケーション・システムをサポートする必要が出てくる。貧しい人々に食料と服を与えるために、農業と製造のテクノロジーを使わなければならない。こうしてきりがなくなる。そのために、社会的な正義を施行するためには、テクノロジー・システムのほとんどを残さなくてはならない。われわれが社会的正義に反対をしているというのではないが、テクノロジー・システムを取り除く妨げにしてはいけないと言う事である。

202、革命家にとって、システムを攻撃するのにテクノロジーをまったく使わないというのは不可能である。最低でも、メッセージを広げるのにコミュニケーション手段を使わなくてはならない。しかしこのテクノロジーの使用は、たったひとつの目的、テクノロジー・システムの攻撃のためにだけ使われるべきである。

203、ワインを一樽目の前にして言うアルコール依存患者を想像してみよう。彼は自分に、「適量ならば、ワインは体に悪くない。少量ならば、むしろ体に良いといわれるじゃないか。少しだけ飲むのなら、悪くはないだろう」と言い始める。そしてその結果は明らかだ。テクノロジーを手にした人類は、ワインの樽を抱いたアルコール依存患者のようなものであることを忘れてはならない。

204、革命家はできるだけ大勢の子供を設けるべきである。社会観は、子孫に受け継がれるという科学的根拠がある。遺伝子から思想が直接引き継がれるというわけではない。しかし性格はある程度受け継がれるものであり、その性格が社会思想に大きな影響を与える。これらの調査結果に対する異議もあるが、それらは弱々しく、イデオロギーに基づいているようである。子供が両親に似通った社会的思想を持つ傾向があることには、誰も反対しないだろう。それが遺伝的なものであるにせよ、子供の教育を通した後天的なものであるにせよ、われわれには大した問題ではない。いずれにせよ、思想は受け継がれる。

205、問題は、産業システムに反対する傾向を持つ人々のほとんどが、人口問題を心配しているために、子供の数制限しがちであるということだ。これによって、われわれは産業システムを支持する人々に世界を手渡すことになるかもしれない。次の世代に思想を強く受け継がせるために、われわれは多産にならなくてはならない。そうしても、人口問題はわずかに悪化するだけである。重要なのは、産業システムを取り除くことである。そうすれば、世界の人口は自然に減少する(第167項3照)。産業システムがある限り、どのように人口が増えてもそれを養っていく方が考え出されるであろう。

206、革命の戦略に関してわれわれが唯一絶対に主張するポイントは、目的は現代テクノロジーの除去のみでなければならないということだ。他のどんな目的も、これと一緒にされてはならない。それ以外のものには、革命家は試行的なアプローチをとるべきだ。それらの試みで良い結果が見られなければ、放棄するべきである。

2種類のテクノロジー

207、われわれの提案した革命が失敗するという意見は、テクノロジーは必ずこれまで進歩してきており、後退することはありえないという根拠に基づいている。しかしこの主張は間違っている。

208、われわれはテクノロジーを2種類に分け、ひとつを小規模テクノロジー、もうひとつを組織依存テクノロジーと呼ぼう。小規模テクノロジーは、外部の援助なしで小規模なコミュニティーで使用することができる。組織依存テクノロジーとは、大規模な社会的な組織に依存するテクノロジーである。確かに小規模テクノロジーはこれまで後退してきたことはない。しかし組織依存テクノロジーは、依存していた社会が崩壊するときに後退する。例をあげると、ローマ帝国が崩壊したとき、小規模テクノロジーは生き延びた。それは例えば腕のいい職人ならば誰でも水車を製造できたし、かじ屋はローマ式の方法で製鉄ができたからだった。しかしローマの組織依存テクノロジーは後退した。彼らの送水路は破壊され、その後再建されることはなかった。彼らの道路工事様式は失われた。都市の公衆衛生システムも忘れ去られ、ヨーロッパの公衆衛生の技術が古代ローマに追いついたのは、ここ最近のことだった。

209、テクノロジーが進歩し続けてきたように見えるのは、たぶん産業革命の1、2世紀前までほとんどのテクノロジーは小規模テクノロジーであったからだ。しかし産業革命以降に発達したのは、ほとんどが組織依存テクノロジーである。冷蔵庫を例にしてみよう。工場で製造されたパーツなしでは、ローカルの職人たちがそれを組み立てることは不可能である。たとえ奇跡が起きて作ったとしても、電力がなければ何の役にも立たない。そこで彼らはダムを作って発電機を作らなくてはならない。発電機には銅の電線が必要だ。近代的な機械なしで、この電線を製作することを考えてみよう。冷却ガスはどうするのか?冷蔵庫の発明前のように、氷室を作るか、乾燥させる方法で食料を保存した方がよほど簡単なのだ。

210、もしも産業システムが破壊されれば、冷蔵庫のテクノロジーはすぐに失われてしまうだろう。それと同じことが他の組織依存テクノロジーにもあてはまる。そして一度失われたテクノロジーは、再現するのに初めて発明するのと同じくらいの時間がかかる。残っている技術の本はまばらで、少数だ。外部からの助けなしで再建するためには、産業社会は段階を踏まなくてはならない。道具を作るために道具が必要で、その道具を作る道具がまた必要になる。長い時間をかけて経済の発展と社会組織の成立が必要となる。さらに、テクノロジーに反対するイデオロギーがなかったとしても、誰かが産業社会を再建しようと試みる根拠はどこにもない。「進歩」に対する情熱というものは、現代社会の特徴のひとつで、17世紀以前にはそのようなものは存在が確認されていない。

211、中世の後半には、4つの「先進」文明があった。ヨーロッパとイスラム文化、インドと東アジア(中国、日本、韓国)である。このうちの3つは大体安定したままで、ヨーロッパだけが大幅な変貌を遂げた。なぜヨーロッパだけがこれほど変わったのか、歴史家たちにはそれぞれの理論があるが、真実は誰にもわからない。とにかく社会のテクノロジーの急速な発展が特別の状態の下でだけ起こることは、明白である。だから、長期にわたるテクノロジーの進退がありえないということはない。

212、しかし社会はいずれまた産業テクノロジー形式の方へ発展するのだろうか。たとえそうであっても、五百年や千年先のことは誰にも予測ができない。その頃の問題は、その時代の人々に任せておけばよいのだ。

左翼の危険性

213、左翼思想は、社会に対する抵抗心とともにその活動への忠誠を必要とする。ゆえに左翼およびそれに類する心理的傾向の持ち主は、元来左翼ではない活動家やその抵抗運動にまったく興味を示さないことが多い。左翼思想家たちが大挙して押し寄せてくると、非左翼活動の元来の目的がねじ曲げられ、左翼思想に乗っ取られることになりかねない。

214、自然を崇拝しテクノロジーに反対する活動は、左翼思想に乗っ取られるのを防ぐために厳然として非左翼の立場を貫き、左翼との協力体制をとることは何としても避けなくてはならない。長い目で見ると左翼思想は、自然、人間の自由、そしてテクノロジーの根絶などとは相容れないものなのである。左翼とは集団主義者である。一見するとそれは全世界(自然と人類)をひとつの総体に融合してくれるかのようだ。だがその結果は、組織化された社会による人間と自然の管理であり、それには高度なテクノロジーが必要なのである。統一された世界をつくるには、高速度の交通、輸送期間とコミュニケーション手段が不可欠である。人々が互いに慈しみ合うような社会をつくるには、高度な心理操作テクニックが必要となる。「計画された社会」をつくるには、テクノロジーを駆使した土台が必須条件なのである。統一化を通じての権力への志向、すなわち集団活動あるいは組織を通じての集団主義を基盤とした権力への志向が、左翼主義の原動力となっている。要するに左翼主義にとっては、テクノロジーは集団的権力に欠かせぬツールなのである。

215、アナーキスト[34]も、また権力を求める。しかし彼らはそれを個人か小規模グループに求める。つまりアナーキストの求めるのは個人や小規模グループが、自分たちの生活を自分たちで管理することなのだ。アナーキストは反テクノロジー派なのだ。なぜならテクノロジーは小規模グループを大きな組織に依存させるからである。

216、左翼思想家のなかには、反テクノロジーを主張するものもいる。しかし彼らがテクノロジーに反対するのは、左翼が少数派であり、テクノロジー・システムが非左翼派によって管理されているからだ。左翼思想が社会の多数派になって、テクノロジー・システムが彼らの手中に入ったとたん、彼らは熱狂的なテクノロジー推進派となるだろう。これは結局左翼が過去に繰り返してきたことと同じなのだ。旧ロシアでボルシェビキが少数派だったときは、彼らは検閲と秘密警察に勇敢に反対し、少数民族の自治権を尊重しようと盛んに言い立てた。ところが自らが権力を握ったとたん、帝政時代よりもいっそう厳しい検閲を敷き、より恐ろしい秘密警察をつくり上げた。少数民族の迫害もまったく改善されることはなかったのだ。合衆国においても、20年前にまだ大学で左翼が少数派だった頃は、左翼寄りの教授たちは学問の自由を熱心に説いてまわっていた。しかし今日、左翼が力を持つ大学では左翼を信奉しない人々の学問の自由は危機にさらされている(これはいわゆる「政治的に正しい」思想を指している)。左翼主義者たちにかかっては、テクノロジーも同様である。彼らの手中に入るなり、彼らはそれを非左翼思想の弾圧の道具として活用し始めるだろう。

217、過去の革命において、左翼のうちもっとも権力に飢えた者たちはいつも非左翼系の革命家やより自由主義的な左翼と最初は共同戦線を張り、のちに彼らを裏切って権力を独り占めするということを繰り返してきた。フランス革命のロベスピエール、ロシアのボルシェビキしかり。スペインでは1938年に共産党が、キューバではカストロとその一派が同じことを繰り返してきた。こうした歴史を顧みれば、今日の非左翼活動家が、左翼主義者と協力するなどはまったく馬鹿げたこととしかいえない。

218、左翼主義は一種の宗教であるという思想家がいる。左翼主義は厳密な意味では宗教とはいえない。超自然的な存在という道理を持たないからである。しかし左翼思想はその信奉家にとっては、宗教がそれを信仰する人々に対して持つのと同じ心理的働きを持ちえる。左翼主義者は、その思想を完全に信じ込む必要があるのだ。なぜなら、左翼思想は左翼主義者の精神原則において決定的に重要な役割を果たしているからである。左翼主義者の心情は、論理や事実の提示によって簡単に覆されるようなものではない。彼らは左翼思想を論理的に絶対に正しいと信じている。しかもそれを自分で信じるだけではなく、他の人すべてを「改宗」させる権利どころか、義務があると信じているのだ(ところがここでわれわれのいう「左翼主義者」たちは、自らを左翼と自覚していないばかりか、その信奉システムを左翼主義とも思っていない。ここで「左翼」という言葉を使うのは、フェミニスト、LGBT活動家、「政治的に正しい」という概念の推進者などを含むさまざまな運動の活動家の類いを総称するのに便宜上使用している。これらの運動は昔の左翼の名残りと強いつながりを持っている(第227~230項3照のこと)。

219、左翼主義は全体主義である。左翼思想が権力を握ると、個人のプライバシーなどそっちのけで、他のあらゆる思想を左翼の型にはめ込もうとする。部分的にはこれは左翼思想の疑似宗教的な性格による。左翼思想にそぐわないものは、すべて罪というわけだ。さらに重要なのは、左翼思想家の権力志向が左翼思想を全体主義にしているという点だ。左翼主義者は社会運動との一致協力を通じて権力欲を満たそうとし、その運動の目標を達成するの を助けることで権力を獲得しようとする(第八三項参照)。しかしその運動がある程度達成されても、左翼主義者は けっして満足はしない。なぜならばその運動は代理でしかないからである(第四一項参照)。つまり左翼主義の真の動機は、左翼思想という見せかけ上の目標達成にはないのである。彼らの本当の動機は、社会的目標に向かって の闘争にある。[35]端的に言えば、左翼主義者は自分の得た結果には満足しない。彼らの権力への渇望は常に新しい目標へと彼らを駆り立てる。左翼主義者は、少数民族の権利を認めろと主張する。それを達成すると今度は少数民族が数のうえでも多数民族と同じくらい社会で成功できるようにしろ、とくる。少数民族に対して、少しでも否定的な考えを頭 の片隅に持っていたら、その人物を再教育しようと試みる。少数民族のみならず、ゲイ、身体障害者、肥満の人々、老人、醜い人々、その他もろもろの少数派に対して否定的な態度を持つことはいっさい許されない。タバコ にしてもそうだ。喫煙の弊害について公表するだけでは飽き足らず、タバコの箱のひとつひとつに警告が印刷されていなければならないという。タバコの広告も、禁止こそまだされてはいないが、制限を加えられている。活動家たちはタバコが全面禁止になるまで満足しないだろう。そして次はアルコール、その次はスナック菓子とくるのだ。確かに彼らは子供への虐待を否定する。それ自体はいいことだ。しかし今ではちょっとした体罰にも目尻を吊り上げる。これがなくなったら何か別の「不健康」なものを探し、次はまた別のものというように永遠に続いていくのである。子育てに関するすべての慣習を禁止するまでそれは止まらないであろう。そして今度はまた次の標的を探すのだ。

220、左翼主義者に、社会の中で変革の必要なものの一覧表を作らせ、それをすべて解決したとする。1、2年の間に彼らは大挙して再び新しい不平の種、新しい社会の「害悪」を見つけてくるだろう。なぜならば左翼主義者が求めているのは、社会の問題を改善するよりもむしろ彼らの思想を社会に押しつけることで得られる権力だからである。

221、急進的な社会主義では、その信奉者の思考と行動はかなりの制限を受ける。ゆえに熱狂的なタイプの左翼主義者は、他の人々のように自分の権利と権力を求めることができない。彼らにとって、その論理に従って権力を得る方法はただひとつ、自分たちの論理と価値観を他のすべての人々に押しつけることである。

222、左翼主義、特に過剰社会化されたタイプの人々はエリック・ホッファーの『本当の信奉者』という本に出てくるような意味では本当にその原則を信奉しているといえる。しかし反面何かを熱心に信奉していたからといって、その人が左翼だとは限らない。例えばナチの信奉者は、左翼の信奉者と心理的にはまったく違う。真の信奉者はその原則に自分のすべてを賭けることを厭わない。ゆえに革命においてのみ彼らは非常に役に立つ、不可欠な存在となる。ここで発生した問題に対する答えは、まだ持ちあわせていない。今のところいえるのは、テクノロジーの破壊にその全エネルギーを向けるのでなければ、彼らを革命に参加させることは危険だということに尽きる。なぜならば、もしテクノロジーの破壊以外にも追うべき理想があった場合、最終的に寝返ってテクノロジーの破壊をおいなりにしたまま代わりに今度はテクノロジーを駅使して他の理想を追うことを優先するかもしれないからである(第220、221項3照)。

223、読者のなかには、「この左翼主義者云々というのはナンセンスだ。友人のジョンとジェーンは左翼っぽいところもあるが、ここまで全体主義じゃないぞ」という向きもあるかもしれない。確かに多くの左翼主義者、おそらくは大半の左翼主義者は他人の価値観を(ある程度までは)受け入れようとするまともな人々で、自分たちの社会的目的を達成しようとして傲慢なやり方をすることはないかもしれない。これまで述べた左翼に関する記述は、左翼主義者の一般的性格についてのもので、必ずしも個々の左翼主義者を表しているものではない。そして逆にいえば、その運動に共鳴する人々の大多数が、どんな人間かということでその運動の一般的な性格を論じることもできないのである。

224、左翼運動のなかでのし上がるのは、たいがいの場合もっとも権力に飢えたタイプである。なぜならば権力を勝ち得るのは、概してもっとも権力に飢えた人間であるからだ。こうした人間が権力を獲得したが最後、運動に加わっているもっとも穏健な人々は彼らを恐れて、心のなかでは強硬派のやり方に疑問を感じていたとしてもそれを口に出せなくなってしまう。穏健派の人々は疑問を感じたとしても、原則そのものを信じているためにそのリーダーについていく。ときに全体主義的傾向に反対する勇気を持った者もいるが、たいてい強硬派の前に敗北してしまう。強硬派は手際がいいだけでなく、残酷で機知に長けており、巨大な権力の基盤を持っているからである。

225、これらは明らかにロシアを始めとする左翼主義者に乗っ取られた国々で起きた現象であった。旧ソ連で共産主義が崩壊する前、西側の左翼主義はソ連を批判することを避けてきた。突つかれれば彼らもソ連の非を認めたが、何かと西側の欠点を見つけ出しては共産主義を弁護してきたのだ。こうした人々は、共産主義の侵略に対する西側の防衛軍備に常に反対をしてきた。世界中の左翼主義者は、合衆国のベトナムでの軍事行動に反対したくせに、ソ連のアフガニスタン侵略に対しては何の行動もとらなかった。それは彼らがソ連の政策に賛成だったからではない。彼らは左翼思想を信奉するあまり共産主義に対するいかなる反対意見も出したくなかったのだ。今日、多くの大学ではすべてに関して「政治的に正しい」ことが求められる。左翼的な大半の大学関係者はこれによって学問の自由が抑圧されることを憂いながらも、反対意見を唱えるのを恐れて口をつぐんでいるに違いないのである。

226、よって、ひとりひとりの左翼主義者は穏やかで寛大であったとしても、左翼主義者そのものが全体主義的傾向を持つことに変わりはない。

227、われわれの討論において、「左翼」という言葉が実際に何を意味するのか、まだひとつ明確ではない。これはいたしかたないことである。今日の左翼主義はさまざまなタイプの政治、社会活動グループに細分化されてしま っているからだ。しかし、すべての活動が左翼というわけではない。いくつかの活動(例えば過激派環境保主義者)、においては大翼的な人間と、完全に非左翼的(彼らは左翼と協力するような愚かなことはすべきではないのだが)な人間がいるようだ。非左翼主義者に変化していった左翼主義者も多数おり、その人物が左翼なのかそうで ないのかは判別するのが非常に困難である。われわれの言及する「左翼」の定義は、当論文中において言及してきた事項そのものによって定義されるほかはない。あとは読者自身で誰が左翼かそうでないのか判断されたい。

228、しかしながら、読者のガイドとなるべくここでは左翼、非左翼の判断基準をいくつかあげておこう。ただしこれは常に文字通りあてはめることはできない。これらの基準を満たしながらも、左翼ではない人々もいるかもしれない。繰り返すが、これに関しては読者の最終判断が求められる。

229、左翼主義者は、概して大規模な全体主義の傾向を持っている。個人は社会の役に立つことが求められ、社会は個々の面倒を見るというわけだ。彼らは個人主義に対して否定的な態度を示し、しばしば道徳主義的なもの言いをする、彼らは銃所持の規制唱え、性教育や他の心理的に開けた。教育、社会計画、アファー、ティブ・アクション、多様性主義などを推奨する。彼らは弱者の視点に共鳴しがちだ。また競争や暴力に反対を唱えながら、同じ左翼による暴力には目をつぶる傾向がある。彼らは「人種差別」「男女差別」「同性嫌悪症」「資本主義」「帝国主義」「新植民地主義」「大量殺戮」「社会変革」「社会正義」「社会的責任」などのありふれたキャッチフレーズを使用することが好きである。これらすべてに賛同する人間は、完全なる左翼である。」

230、危険な左翼、つまり権力に飢えた左翼主義者の特徵は、傲慢であること、またイデオロギーを原理主義的に振りかざすことである。しかしながら、もっとも危険な左翼主義者はおそらく、その攻撃性を隠し、左翼思想をおおっぴらに見せるのを避ける、過剰社会化されたうぶな人々である。彼らは密かに目立ぬよう、その全体主義思想、子供たちが「啓発」するための心理操作、個人のシステムへの依存などを広めようと動きまわっているのである。これらの隠された左翼主義者は一見その生活様式などからしてある種の上流中産階級に属するように見えるのだが、その心理、動機、イデオロギーにおいて本来の上流中流階派とは異なっている。普通上流中流階級が他の人」をシステムの管理下に置きたがるのは、自分の生活様式を守るためか、ただたんにその人が伝統的価値観を持っているからである。ところが隠れ左翼が人をシステムの管理下に置きたがるのは、集産主義のイデオロギーを真に信奉する。ゆえなのだ。こうした隠れ左翼が過剰社会化された他の一般左翼主義者と異なるのは、その反乱への希求が弱いこと、よりしっかり社会化されていることであろう。また彼らが普通の社会主義的上流中産階級と異なる点は、彼らのなかに決定的に欠落した何かがあって、それが彼らを全体主義に向かわせ、のめり込ませていることである。そしておそらくは、彼らの内の(より純化された)権力志向は、普通の上流中産階級よりもずっと強いのである。

最終備考

231、この論文の全体にわたって、われわれは資料や根拠を添付すべき大まかな声明をした。これらの声明のなかには、明らかな誤りもあるかもしれない。われわれの情報不足と、文字量の制限のためにわれわれの主張をより精密にし、また必要な資料を加えることは不可能であった。そしてこのような討論は、必ず個人の直感に頼らざるを得ない部分もあり、それもときどき間違っていることもある。この声明文は、真実についての大まかな記述以上のものではないことをわれわれは主張する。

232、それと同じように、ここでわれわれが示した概略はおおよそ正しいと確信している。ただ唯一の弱い点は、パワープロセスの中断の徴候として左翼主義を描いた部分である。しかし、ひょっとすると、われわれはこれについて誤解しているかもしれない。道徳によって自分の権力欲を満足させようとしている過剰社会化タイプとは、いつの時代でも存在した。しかしこの劣等感、自信喪失、無力感、他人事である犠牲者に共感の意を示すことなどで被害者の役割を演じる人々は、特に現代の左翼に多いとわれわれは感じた。19世紀の左翼運動と初期の キリスト教にも、他人事である犠牲者に共感を示すという動きはあった。しかしわれわれが指摘できる限り、現代の左翼主義ほど彼らは自信喪失その他の傾向は持っていなかった。しかしわれわれは現代の左翼運動以前にこのような存在がいなかったと断定する立場にはいない。それは歴史家たちによって検討されるべき問題である。

脚注

[1](第19項)われわれは、暴漢や情け容赦ない競争者でも、そのほぼ全員が劣等感で苦しんでいると断言する。

[2](第25項)ビクトリア朝時代には、大勢の過剰社会化した人々が性的な感情の抑圧からくる心理的な問題に悩んでいた。聞くところではフロイトはこのタイプの人々にあてはめて彼の理論を展開した。現在では社会化の焦点は、性から攻撃性に変わった。

[3](第27項)工学の専門家、「難解な分野」の科学者は必ずしも含まない。

[4](第28項)中産および上流階級の人間で、この価値観に同意しない人間は大勢いるが、大概その抵抗は秘密裡に行われる。その抵抗がマスメディアに取り上げられるのも、ごく限られた範囲においてのみである。われわれの社会におけるプロパガンダの主な主張は、社会の通常の価値観となっている。その主な理由とは、われわれの社会におけるいわゆる正当な価値観とは、産業システムにとって有利であるからだ。システム遂行の妨げになるために、暴力はわれわれの社会では許されていない。また民族間の争いはやはりシステム遂行の妨げとなり、またシステムに有用な人材の浪費となるために人種差別は許されていない。貧困はシステムのトラブルの元なので、「修正」されなくてはならない。また下層階級との接触は、他の階層のモラルを下げる。システムにとって有用であるため、女性は仕事を持つことが奨励される。さらに重要なことに、女性が仕事を持つことにより、彼女たちのシステムとの結合は、家族との結合よりも強くなる。これが家族団結を弱めるのを助ける。システムの指導者たちは家族の団結を強めたいと主張するが、それは家族がシステムの需要に見合った子供の社会化のために役立つ道具であるからだ。第51項、52項で指摘したように、システムは家族やその他の小規模グループの絆を強くしたり、自立したりすることをけっして許すことはない。

[5](第42項)大多数の人々は、自分の頭を使わずに指導者に思考してほしいと願っているという意見もあるかもしれない。これのなかには真実が含まれている。人々は小さいことは自分で決定することを好む。しかし難しくて基本的な問題に関する決断をすることは、心理学的な葛藤の認識を必要とする。そして人々は、心理的な葛藤をひどく嫌う。それゆえ、彼らは難しい決断に関しては他人任せになる傾向がある。しかしそれはこれらの人々が自分たちの意見を反映させる余地のない決断を押しつけられたいという意味にはならない。大多数の人々は生まれつき指導者ではなく従属者であるが、指導者と直接接触を持ち、たとえ難しい決断に関してもある程度の意見を反映させることを好む。彼らもその程度には自治を必要とする

[6](第44項)ここにリストされた徴候のいくつかは、ゲージに入れられた動物と似かよっている。これらの徴候がパワープロセスに関する剝奪からどのように起こるか説明すると、人間性の一般的な理解では、努力を要する目的の欠如は倦怠を招き、その倦怠が長く続くとうつ状態を招く。目的の達成が失敗すると、欲求不満と自信喪失を招く。欲求不満は怒りへ、そして怒りはしばしば配偶者や児童虐待の形で攻撃性へと変わる。長期にわたるフラストレーションはうつ状態を招いて、ひいては罪悪感、不眠症、拒食症、悪感情などを引き起こす。うつ気味になっている人々は、解毒剤として快楽を追求する。飽くことのない快楽主義、過度のセックス、刺激としての変態性欲。倦怠も同じように過度の快楽追求を招き、しばしばこの快楽追求が目的として使用される。添付した図解参照。_前途のことは、概要である。現実はもっと複雑であり、もちろんこれらの症状を引き起こすのはパワープロセスの剝奪のみではない。ところで、われわれがうつ状態というのは、精神科によって扱われるうつ病のみを指しているわけではない。軽い倦怠などもそれにあたる。また目的について言及している場合、それは長期の目標だけではない。人類が始まって以来の、自分と家族を養うということでも充分である。

[7](第52項)社会にほとんど影響力のないアーミッシュ(注:移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られる)のような、少数で内輪的なグループの例外は存在するかもしれない。それ以外にも、いくつかの小規模グループも現在のアメリカには存在する。例えば、青年ギャング団や新興宗教団体など。彼らは危険視されているが、それは彼らが産業システムよりもグループに忠誠心を持っていて、産業システムがコントロールできないからである。あるいはジプシーのように、窃盗や詐欺を働いてもいつも他のジプシーによって無罪を「証明」される人々もいる。これらのグループに所属する人々が増えると、システムは明らかに重大な問題に面する。孫逸仙によれば20世紀初頭に、中国を近代化することに関心があった中国の思想家が、家族のような小規模グループを破壊する必要性を認識した。中国人は、忠誠心を家族や伝統への執着から国へ移すための、新しい種類の愛国心を必要としていた。特にナショナリズムが中国で発展するためには、家族は捨てなければならない(『20世紀の中国政治思想』チェスター・C・タン著、一25ページ、297ページ)。

[8](第56項)19世紀のアメリカにも、重大な問題は存在した。しかし文字分量の関係から、ここでは簡略に述べている。

[9](第61項)ここでは下層階級は例外として、主流階級について述べている。

[10](第62項)ある種の社会科学者、教育者、「精神の健康」の教授たちは、すべての人々が社会的に満足感を覚え、第一グループに属するように最善を尽くしている。

[11](第63項)尽きない物欲というのは、本当に広告とマーケティング産業の創造物なのだろうか?もともと人類には、生まれつきの物欲というものはない。世界には、基本的な体のニーズ以上のものをほとんど所有しなかった文化も存在する(オーストラリアのアボリジニ、伝統的なメキシコの農業文化、いくつかのアフリカ文化など)。その一方では、産業化以前の文化で、物欲が非常に重要だったものもある。そのため、今日の物欲主義の文化が、広告とマーケティング産業の産物であると主張することができない。しかし、広告とマーケティング産業がこの文化を引き起こすことで重要な役割を果たしたことは明白である。広告費用に何百万も使う大企業が、売上げの増加のデータなしにこれらの大金を広告に投入することはありえない。FCのメンバーのひとりは、数年前に「われわれの仕事は、人々がほしくもなく、必要でもない物を買わせることです」と率直に語ったセールス・マネージャーに会ったことがある。彼は訓練を受けていない新米のセールスマンが商品の説明をしても買わない人々が、経験豊かなベテランのセールスマンにかかると同じ品物を買ってしまうという事実を説明してくれた。これは人々が、必要でもないものでもうまく操作されれば買うという事実を示している。

[12](第64項)目的意識の喪失の問題は、15年前ほど深刻ではなくなった。それは人々が以前よりも肉体的、経済的な安全を感じなくなったからで、安全を求めることが彼らにひとつの目的とするのである。しかし、この目的の喪失は安全を達成することの難しさから生じるフラストレーションと取り替えられた。リベラルと左翼派は、社会にみんなの安全を保証してもらうことによってわれわれの社会的な問題を解明したいと思っているが、それが達成させられればわれわれは再び目的意識の喪失の問題に直面することになる。本当の問題は、社会がどのくらいの安全を与えてくれるかではない。問題は、安全管理が人々ではなくシステムに依存していることである。ところで、これはなぜ一部の人々が銃の所有に固執するかということの理由である。銃の所有は、安全管理を本人の手に渡すことになるのだ。

[13](第66項)保守派が政府による規制を減少させようとする努力は、一般大衆にはほとんど利益がない。ほとんどの規制は必要なものであるために、排除されるとしてもその一部だけになる。さらには、この規制緩和の大部分は一般個人よりも企業に関係のあることなので、これはたんに政府から企業に権力を移すことになるだけである。これまで政府が干渉してきたことに、企業が干渉するようになる。例えば排水により川の水に多くの化学物質が含まれるようになり、人々の癌の原因になるなど。保守派は、たんに一般大衆の恨みを利用して、「巨大な政府」から「巨大な企業」へと権力を移そうとしているだけである。

[14](第73項)プロパガンダが一般的に承認される場合、それは「教育」やそれに類似した遠回しな表現で表される。しかしプロパガンダはそれが何に使用されようとも、プロパガンダであることに変わりわない。

[15](第83項)われわれはパナマの侵略についての賛否を問題としてはいない。われわれの視点を説明するために使用しただけである。

[16](第95項)アメリカ植民地がイギリスの支配下にあった当時、合法的な自由の保障はアメリカの議会が有効になってからよりも少なかった。しかし個人レベルでの自由は、独立戦争の前も後も、産業化される前のアメリカには多く存在したが、産業革命の波が押し寄せてきてそれを略奪した。ヒュー・デイビス・グラハムとテッド・ロバート・ガー共同編集の、『バイオレンス・イン・アメリカ/年代と比較』から、ロジャー・レーン執筆の第12章を引用する。「19世紀のアメリカにおいて、平均的財産の増幅と、それに伴う法律施行の増加は社会一般的な現象であった。社会的な行動の変化は、長い間広範囲にわたって社会のもっとも基本的な社会プロセス、産業都市化そのものと関連していた。1835年のマサチューセッツでは、66万940人の市民が住んでいて、州内の81%は田園でほとんど開発されていなかった。市民たちには、かなりの個人的な自由に慣れていた。御者、農場経営者、職人であろうとも、彼らは自分のスケジュールを作ることに完全に慣れていた。そして彼らの仕事の性質から、肉体的にお互いに依存し合うことはなかった。また、道徳上の罪や犯罪などが、社会での問題に発展することはほとんどなかった」しかし1835年に起こった都市と産業への両方の動きは、19世紀から21世紀にかけて個人の行動に影響を与えることとなった。工場は個の行動に規則性を要求し、生活は管理者とカレンダー、時計によって支配された。都市や町では、密接して暮らす生活スタイルが、これまで問題とされていなかった個人の行動を禁じるようになった。大きな組織の中ではホワイトカラー族も、肉体労働者も、同僚として互いに依存しあうために、ビジネスとはもはや彼ら個人のものではなかった。「新しい生活組織と仕事の結果により、1900年にはマサチューセッツの280万5346人の住民のうち、約76パーセントが都市住民者に分類された。独立した社会では許されていた、乱暴な振る舞いや変わった行動はすでに様式化した環境では許されないものになっていた。都市への移住は、人々を短期的にはより便利で、社交的で、『文明化』した世代へと育て上げていった

[17](第117項)システムの弁解者は、選挙の勝敗がわずか1票か2票であったことを引用したがるが、そのようなケースは稀である。

[18](第119項)「今日テクノロジー先進国では、場所、宗教、政治的な相違にもかかわらず、人々は非常に似通った生活を送っている。シカゴのキリスト教徒の銀行員、東京の仏教徒の銀行員、モスクワの共産主義の銀行員の毎日は、千年前に生活していた人々よりもずっと類似している。これらの類似は、日常のテクノロジーの結果である」『古代のエンジニアたち』(L・スプラグ・デキャンプ著、バレンティン版17ページ)。この3人の銀行員の生活は、まるっきり同じではない。イデオロギーにはいくらかの影響力がある。しかしすべてのテクノロジー社会は、おおよそ同じように進化していく。

[19](第123項)無責任な遺伝子エンジニアは、大勢のテロリストを生むかもしれない。

[20](第124項)医学進歩の望ましくない結果についてさらに例をあげるなら、例えば癌に対する治療法が発見されたとしよう。たとえ治療がエリート以外の人々にとってあまりに高価であるとしても、それは環境へ発癌物質の流出を食い止める熱意を大幅に減少させることになるだろう。

[21](第128項)良いことが積み重なると悪い結果が生まれるということをパラドックスとして感じる人々は多いかもしれない。次のように説明をしてみよう。A氏がB氏と一緒にチェスをしており、名人C氏がA氏の肩越しに見ているとする。当然A氏は勝ちたいため、C氏がA氏に良いアドバイスをすれば、それはA氏に利益を与えることになる。しかしC氏がもしすべての動きを指示したらどうなるか。個々を見れば、C氏はA氏にもっとも良い動きを教えているために利益を与えているのだが、全体的に見れば、彼はA氏のゲームを台無しにしている。A氏がやっていることの意味がまるでないからだ。現代人の状況は、A氏と同じである。システムは個人の生活を助けるが、その代わりに彼の運命を支配するようになる。

[22](第137項)ここではわれわれが問題としている価値観の葛藤は、主流階級のものだけである。可能な限り単純にするため、われわれは野生の自然は人間の経済・福祉よりも重要であるというような「アウトサイダー」的な見解には触れなかった。

[23](第137項)私欲は、たんに物質的なものだけを指しているわけではない。例えばそれはイデオロギーか宗教の布教というような、精神的な生き甲斐である可能性もある。

[24](第139項)システムは、ある分野である程度の自由を普及させている。例えば、適当な限界と抑制をもって許されている経済の自由は、経済の成長を促進することに効果的であると判明した。しかし、あくまでもシステムのためになると限定されている自由のみである。たとえ長い鎖でも、個人はいつも鎖を付けておかなければならない(第94、97項3照)。

[25](第143項)われわれは社会の生存の可能性が、いつも社会が人々に与えるプレッシャーや不快感の量に反比例するとは主張していない。それは事実とは反している。多くの未開社会はヨーロッパの社会よりもプレッシャーが少ないということには根拠があるが、ヨーロッパ社会は未開社会よりも効率的で、テクノロジーを行使して生き延びてきた。

[26](第147項)犯罪を押さえるために、より厳しい法律施行が効果的だと思うのなら、システムが犯罪と呼ぶものは、必ずしもあなたが思う犯罪とは一致しないことを考慮するべきである。現在米国では、マリファナを吸うことや、登録されていない拳銃を所持することは犯罪である。将来的には、どのような種類の銃兵器も不法になるかもしれず、また子供に対する体罰にも同じ処置がとられるかもしれない。ある国家では、政府を批判することは犯罪である。どんな憲法も政治システムも永久には続かないから、アメリカでもそのような事態が起こらないという保障はない。もし社会が大きい強力な法律施行を必要としているのなら、その社会には何か深刻な問題がある。人々が法律を破りたくなるような、シビアなプレッシャーが課されているに違いない。過去には多くの社会が、ほとんど法の執行をすることなく機能していた。

[27](第151項)念を入れて述べると、過去の社会でも人間の行動に影響を与えるということはあったが、現在のテクノロジーを行使したそれに比べると、原始的で効率が悪かった。

[28](第152項)ある心理学者たちは、人間の自由に対する彼らのあらわな軽蔑心を公の場で発表している。1987年8月号の『オムニ』誌では、数学者クラウド・シャノンが「ロボットに対するわれわれの立場が、現在の人間に対する犬のようになる日を想像できる。そして私はその機械を応援している」と言った言葉が掲載された。

[29](第154項)これはSFではない!154項を書いたあと、われわれは『サイエンティフィック・アメリカン』誌の記事で科学者たちが将来犯罪者になりそうな可能性のある人物を探し出し、生物学的、心理学的な方法を使って治療を行うという記事を見つけた。近い将来可能かもしれない、この治療の強制志願を支持する科学者も存在する(「犯罪者の要素を探す」W・ワイト・ギブス執筆『サイエンティフィック・アメリカン』1995年3月号3照)。暴力的になりうる犯罪者だけを探すのならば、かまわないと考えるかもしれない。しかしそれだけで終わることはありえない。この療法は飲酒運転者(彼らも人命を危険にさらす)、そして子供に体罰を与える者、木材を伐採する施設でサボタージュを起こさせる環境保護論者など、そのうちシステムにとって不都合などんな人間にもあてはられていくのである。

[30](第184項)対象になる理想としての自然のもうひとつの利点は、多くの人々にとって自然がある種の宗教的な敬意の念を起こさせることである。そのため自然はおそらく宗教的に理想化させることが可能であろう。多くの宗教が確立した秩序にへつらう役割を果たしてきたことは事実だが、同時に反乱の種を供給したこともまた事実である。今日西欧社会は確固とした宗教的な基盤を持っていないため、テクノロジーへの反乱に宗教的要素を取り入れるのは役立つかもしれない。今日の宗教とは、狭く禁欲的な利己主義に対する安っぽくて底の見えるサポートか(ある保守派の人々はこのように利用する)、あるいは手軽な利益をあげる手段か(原則派エバンジェリストの牧師たちなど)そうでなければ停滞している(カソリック、主流プロテスタント)。西欧が近代に見たもっとも強くて広く行きわたった、ダイナミックな宗教に一番近いものといえば、左翼思想の疑似宗教であった。しかし今日の左翼は分裂していて、明確で統一された目標は何もない。「したがって宗教の不足しているわれわれの社会では、テクノロジーに対抗する自然を中心とした宗教を布教させることが可能であろう。しかし、この役割を満たすために、人工的に宗教をでっち上げようとするのは誤りである。そのような目的で発明された宗教は、たぶん失敗するであるであろう。例えば、「ガイア」教を見てみよう。支持者たちは、本当にそれを信じているのか、あるいは演技をしているのだろうか?もしも演技をしているのなら、彼らの宗教は、完全な失敗である。もしあなたが自ら本当にその宗教の存在を信じるのでなければ、自然対テクノロジーの宗教を他の人々の間で深く強い応答を呼び覚ますことは不可能であろう。

[31](第189項)仮にそのような最後の一押しができたとしたら。産業システムは、いくぶん段階的な形で排除することができるかもしれない(第4、167項と脚注43照)。

[32](第193項)テクノロジーに対する人々の見解の大きな変化だけで、産業システムをゆっくり崩壊する方向へ持っていくことは可能かもしれない。もしこれが起こるならば、われわれは非常に幸運である。テクノロジーのない社会への移行は非常に難しく、通常は対立と惨事を招くであろう。

[33](第195項)人々の生活の様式を確定するのに、社会の経済およびテクノロジーの構造の方が、政治的な構造よりもはるかに重要である(第95項、119項と脚注[6][8]3照)。

[34](第215項)この声明文は、特有のアナーキズム・スタイルに言及する。これまで「アナーキスト」と呼ばれたのは、さまざまな社会的思想があったが、アナーキストを自称する人々のすべてがわれわれの第215項を受け入れないかもしれない。また非暴力的なアナーキスト運動もあり、彼らはわれわれFCがアナーキストであること、そしてFCの暴力行為に賛同しないであろう。

[35](第219項)多くの左翼派の人々の動機は、敵意ともいえる。しかし敵意は、パワーへの失望から生じた結果であろう。

[36]これは今日の社会に存在する、運動に賛同する人々を指している。女性やホモななどに同等の権利があるべきだと信じる人々がすなわち左翼というわけではない。われわれの社会に存有するフェミニスト、LGBT運動家などの持つ特殊なイデオロギー的トーンが、左翼主義的特徴がある。例えば女性には等しい権利があるべきであることを信じていれば、今日存在するフェミニスト運動に同調しなければならないということはない。

新訳 産業社会とその未来
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